First Chronicle 魔導士ルイン
4. 遠い記憶
紫の閃光が煌くと、澄んだ声が響いた。
「君は、いつまでそうしているつもりなんだ?」
「………」
不意に声を掛けられて、緑の閃光は微かに瞬いた。しかし、返事はない。
「別に強制しているわけじゃない。君の気持ちがわからないわけじゃないからね」
彼は相手が沈黙する理由を知っている。気を遣いながらなるべく優しく接するように努めていた。だが、なかなか上手くはいかないようだ。
少年はじっとしたまま、沈黙を守っていた。こうなるのはいつもと変わらない。
「悲しいのは君だけじゃないんだ。どうか、理解してくれないか? そして出来れば……力になって欲しい」
「………」
やはり返事はなかった。今回も駄目だったのだろう。
このまま続けても進展はない、そう踏んだ彼は静かに姿を消す。
残された少年は、誰もいなくなった場所で小さく呟いていた。
「僕が出来ることなんて……何も無いんだ」
*
険しい道のりを越えた先で、ルインは胸の鼓動が高まるのを感じていた。
紫の瞳が捉えたものは、紛れもなく建造物の集合地帯 ── つまり、魔界の街だ。
魔物と戦い続ける中、今まで一度も悪魔と遭遇しなかったことに疑問を抱いていたのだが、これで納得がいく。どうやら悪魔も人間と同じように自分たちの生活環境を持っているらしい。彼らなりの文化をここで築き上げているのだ。
遠くに連なる景色を厳しい表情で睨みながら、目標に近づきつつあることを改めて頭に刻み付ける。
目指す場所を確認したルインは、濃くなりつつある白霧の中へ潜り込んだ。
街まではかなり距離がある。例え一直線に進んだとしても一日では辿り着きはしない。敵地が近付いていることを知った足取りは、一層慎重さを増していた。下手に自分の存在を周りに知られたら大変面倒なことになる。
ルインが絶対に討つと決めた相手は魔王。
そして……もう一人。
彼らのために全ての力を注ぐ必要があった。他の悪魔を倒したとしても、根源を絶たねば何の意味もない。そうはいっても魔王の力は未だに未知数、姿さえも謎に包まれている。正直に言うと誰も魔王を目にしたことがないのが実情だった。
悪魔たちの背後で指示を出し、世界に直接関わらずして猛威を振るう魔界の王。その卑劣な戦略にどれだけの人々が平穏を崩されたことか数え知れない。
ただ、もう一人の悪魔に関してルインは知っていた。魔王とは別の悪魔、それは他の悪魔とも違うと言えた。一度だけ刃を交わしたことのあるその悪魔は、悪い意味で頭が良く、悔しい事にそれ相応の実力も兼ねている。
ルインにとって“奴”だけは、どうしても許すことが出来ない存在だった。その悪魔を思い出すだけで腹立たしくなり、悲しみさえも蘇る。
── 私がそばにいたなら……。
あの雨の日に、血を見ることはなかったのに。
ルインの中に眠る想いは、いつまでも後悔に囚われていた。
薄暗い空。闇に沈む森。黒い影。難儀な道を歩き続け、同じ風景ばかりが瞳に過る。
そのせいで少し気が抜けてしまったのだろうか。魔物と戦った疲れもある。慎重になり過ぎて心労を重ねてしまったせいもあった。
「っ…!?」
片足が突起していた岩に躓いてルインはバランスを崩す。持っていた杖を支えにしようとしたが間に合わなかった。
ドッ
まるで子供がするような転び方だった。受け身もまともに取れていない、前にのめり込んだ格好。情けないことに額まで痛める始末である。まったく運がない。
「うぅ…痛い……」
ヒリヒリする額を押さえながらルインは立ち上がろうとした。岩場の表面は黒墨のようになっていて、手を付くとすぐに汚れてしまう。といっても幾度も繰り返された戦闘によって、ルインの纏っている法衣はお世辞にも綺麗とは言えない状態だった。
膝を付いて顔を上げると、忌まわしき闇の景色だけが黙々と広がっている。
そのとき、かすかに懐かしい声を聞いた気がした。
『── ルイン、大丈夫か?』
頭の中がぼんやりする。無意識に手を伸ばそうとして、ルインはハッとなった。
『……マスター、大丈夫ですか?』
聞こえたのは自分を心配する妃砂の声だった。ルインの手元にある杖は仄かに光を灯している。
今のは幻だったのか。一瞬でも自分の望みを夢みてしまった……儚い現実。
「……ああ、大丈夫」
立ち上がったルインは杖を拾い、汚れた服を払った。しかし言葉と行動に反して、遠い昔の想いが脳裏に蘇ろうとしていた。
── あれから6年……。
時間は瞬く間に過ぎていくとつくづく思う。
ルインは腰に結っている剣を手に取った。鋭く磨き挙げられた刃に自分の顔が鮮明に映る。それだけ、この剣の持ち主は毎日手入れを怠らなかったのだろう。かなり使い入れてあるが、今でもその輝きは変わらない。
ほんのりと魔力を感じる、かつてのパートナーが使っていた風星剣。
大地を駆ける風。
闇を照らす一閃の光。
それは、彼自身をそのまま表しているような気にさえなる。
── 私はいつも、あいつに助けてもらっていたな。
今更ながらに思い出す。彼は自分にとっての親友で、そして……。
── もっと早く、自分の気持ちに気付いていたなら…。
ふと、懐かしい言葉が思い浮かんだ。
『自分を信じていれば大丈夫だよ』
それは幼い頃、自分の兄がよく口にしていた言葉だった。落ち込んだとき、悲しいとき、いつも優しく声をかけてくれた兄。しかし今は…。
── 兄さんも、あいつも……もういないんだ。
遠い過去を振り返って、ルインはくっと唇を噛みしめる。
二人とも、死ぬ理由なんてなかったのだ。それなのに、どうして運命とは無慈悲なのだろう。ぎすぎすと胸を締め付けるような感情は今でも消えることがない。決して忘れることができない想いだった。
『……今日はもう、休みませんか?』
ルインの様子を伺った妃砂は控え目に口を開く。精霊の勘は警告を鳴らしていた。ルインはある一点を考え始めると精神が不安定になる。表情や言葉では表さないものの、時間を共に過ごしてきた妃砂には聞かずともわかっていた。それがどれだけ彼女の心を支配しているのか、彼女にとってかけがえのない大切なものであるのか。
言葉は否定されると思っていた。自分のマスターは「大丈夫?」と尋ねられた場合「大丈夫だ」と応える人間だったから。
けれど、予想に反してルインは小さく頷く。
「……そうだな」
しばらく形見の剣を眺めてから、そう呟いた。
*
「ごめんなさい」
その声はとても小さくて、しかし、夢の中では大きく響いていた。
「ごめんなさい。僕が強ければ良かったんだ」
過ぎた時間を取り戻すことはできない。だからこそ悔やんでしまう。
「僕がもっと早く目覚めていれば、貴方を悲しませることはなかった」
そして、あの人を失うこともなく……。
しかし、時間は過ぎてしまった。いくら足掻いても、過去にはもう戻れない。
「僕が出来ることなんて、何も……」
*
魔界には太陽という際立った光源が存在しない。いつから朝なのか、どこまで夜なのか。空は一日中闇に濡れたままで、時間の基準が非常に曖昧だった。一応昼にはうっすらと明るくなるらしいが、それが昼だと言われても世界の人々には理解できないだろう。
だからルインも、自分がいつ頃目覚めているのかよくわかっていなかった。
「おや……今日は珍しいですね、マスター?」
頭上には妃砂の顔があった。澄んだ紫色の瞳はアメジストのように綺麗で、クリームイエローの髪が風に遊ばれてふわりと揺れる。その整った顔が覗き込んでいるところを見ると、丁度自分を起こそうとしていたようだった。
精霊には人を惹きつける美しさがあるとルインは何かの文献で読んだことがある。しかし全ての精霊に当てはまるというわけではない。そもそも美しいという概念は受け手の捉え方に依存するものだ。それでも、ルインから見た妃砂は誰が見ても魅力的な容姿を兼ねていると言えた。自分が気を緩めていたならたちまち魅惑に堕ちてしまうのだろう。
ルインが眩しそうに紫の瞳を細めると、妃砂は笑みを浮かべた。美貌もさながら高位精霊は勘が鋭い。虚ろな顔で自分を見上げるマスターに、少し悪戯心が騒いだらしい。
「そんなにこちらを見つめて、私に惚れてしまいました?」
「……まさか。綺麗な顔だとは思うけどな」
「フフ、照れなくてもいいですよ?」
「照れてない」
くすくす笑う妃砂を余所に、ルインはむくりと身体を起こす。そして、ゆっくり吐息をついた。様子を案じた妃砂は彼女の顔を覗き込んだ。
「気分が良くないようですね、私がからかったせいですか…?」
ルインはぼんやりしたまま首を横に振る。それから言葉を紡いだ。
「……妙な夢を見た」
「夢、ですか?」
「誰かが謝っているんだ。自分は何も出来ないと言って……」
そういえば、どこかで聞いたことがある声だとルインは思った。残念ながらすぐには思い出せないが。何だったんだろうな、と早々に話を切り上げたルインは立ち上がり、出発の準備を始めた。
会話の途中、妃砂の表情が僅かに変わったことには気付いていなかった。
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