First Chronicle 魔導士ルイン

29. 仇と記憶

 通路の奥から刻々と歩み寄る一人の悪魔。
 青白い肌に血のような赤い瞳。
 背中には細く鋭い骨格を持つ黒い翼。

 悪魔の服装は至ってシンプルなものだった。
 青紫色のタートルネックを着用し、袖はノースリーブ。
 そこから伸びる両腕には服と同色の長手袋、銀色の腕輪が身に着けられている。
 腰ベルトから前後へ下がる布地は装飾模様が描かれており、両サイドのスリットから見える太腿は、白い布地でテーピングされていた。
 灰色の跳ねた髪。
 長めの前髪から覗く表情はどこか幼げで、無邪気な微笑み。


 見覚えの ── いや、絶対に忘れることのない、瞳に焼き付けられた容姿にルインは殺気立った。一方、灰色髪の悪魔の方は、笑みを浮かべたまま物珍しそうな様子で先に口を開いた。
「誰かと思えば、君、人間だねぇ。魔界に来た人間って、君のことかな? 珍しいこともある。ところでさ…」
 悪魔は足元から静かに浮かび上がる紋様に気付き、軽いステップで飛び退いた。直後、紋様から閃光が瞬いて、床から渦を巻いた炎の柱が立ち昇った。唸るように天井へ衝突した炎はやがて燃え尽き消えてゆく。炎を見送った悪魔は感心するような顔を見せて、言いかけた言葉を続けた。
「遠隔からの魔法陣? すごいね君。でもその前に、話は最後まで聞いてほしいな」
「悪魔の話なんかどうでもいい…私は、仇を討つ!」
「仇? てことは僕が殺した人間の知り合いということか。わざわざ魔界まで追ってきたの? 面白いね」
 なるほど、と納得するような仕草を見せた悪魔。嬉しそうな笑顔で背中の翼を大きく広げた。
 ルインは悪魔と言葉を交わす間にも次なる魔法を放っていた。しかし、相手の勘が良く、魔法が的中する寸前のところで避けられてしまった。
「フフ、君の魔法から物凄い殺気を感じるよ。余程僕を殺したいようだ。そういうの……大好きだよ♪」
「…!」
 ふわっと宙に舞った悪魔。右腕にぐぐっと力が込められると、長手袋から切っ先だけ出ていた五本指の黒い爪が刃物のように伸びて変形した。その爪が振り下ろされるとびゅんと音が響いて、鎌鼬となった風刃がルインを襲う。
 すぐに防御の陣を発動させたルインは悪魔の風刃を弾き飛ばした。
 が、次の瞬間には悪魔が目の前へ迫っていることに気付く。黒い爪が襲い掛かってきた。

 がきんっ!

 咄嗟に魔導杖で爪を受け止めるルイン。だが、もともと近接戦が不得意であるためにやや力に圧されてしまう。それを知ったのか、悪魔は力任せにルインを杖ごと押し飛ばした。飛ばされたルインは通路後方で転がるように倒れ、反動で少し擦り傷を負った。
『ルイン大丈夫ですか!?』
 妃砂が予め張っていた護りのベールによって強い衝撃は抑えられたものの、近接は自分にとって不利だということを実感する。ルインは「大丈夫」と小さく頷いて即座に立ち上がった。
 悪魔の追撃に身構えようと魔導杖を前方へと向ける。しかし、その先で見たのは、何もせずただ待機する悪魔の姿だった。こちらへ攻撃しようとする素振りはなく、余裕があるのか腰に両手を当てたまま「やっと立ち直ったかい?」とでも言うように、赤い瞳はじっとルインを眺め、笑みを浮かべている。
 ルインの感情は、背筋が逆立つように高鳴る。
 それもそうだ。目の前にいる悪魔は、ルインが長年に渡り追い求めていた宿敵 ── 四天王ガロ。

 ── 絶対に、許さない…!!

 感情が赴くままルインが次の魔法を唱えようと唇を開きかけた時。
「ふふ、そうはさせないよ?」
 少し屈んだガロは地面に両手の爪先をなぞらえて勢いよく振り上げた。それは地鳴りとともに岩の隆起を発生させる。鋭い棘と化した岩が流土しながらルインの方へ押し迫ってきた。地属性の魔法だろう。すかさず魔導杖を振って相殺させる魔法を放った。しかし、相殺された魔法は轟音とともに砂埃を舞い上げてしまった。束の間、視覚が遮られる。
 ルインが闇の気配を辿った時、ガロはすでに自分の元へ迫ってきており、攻撃を仕掛けてきた。
「…!!」
 再びルインの杖とガロの黒爪が交差する。ルインはなんとか攻撃を薙ぎ払って防御を保った。
 互いの力が交差する先で、悪魔が口元を歪めてニヤリと笑うのが見えてルインは一瞬悪寒を覚える。
 視界に過ぎる悪魔の黒い翼が大きく揺れ動いた、そのときだった。
『ルイン危ない!!』と言う妃砂の声と同時に、死角からの攻撃がルインを襲った。
「目の前に集中すると周りが見えなくなる、ってね」
 爪の攻撃に気を取られていたルインの脇腹に、悪魔の左翼が強く打ち当たっていた。鈍器で打たれたかのような衝撃だった。
 ルインは唸りながら蹌踉めいた。そこへ隙無く、ガロの右腕がルインの胸元をぐいっと掴み上げる。そしてそのまま、後ろを振りかぶって軽々と投げ飛ばした。
 息つく間もない出来事だった。宙に投げ出された身体は受け身もままならず、廊下の壁へと直進してしまう。
「っ…!」
 目前に迫る黒いの壁。ルインは強引に何かを呟いた。
 ごうっ
 巻き起こった風がルインの身体を包み込み、その勢いを抑える。完全に相殺することは出来なかったので、やむを得なく壁に背中を打ってしまった。
 それを見ていたガロはひゅうっと口笛を鳴らした。
「やるねぇ~♪ 魔法の衝撃緩和、さすが魔導士ってところかな」
 ルインは苦渋を浮かべ、埃を払いながらも立ち上がる。

 近接戦に長けていた兄、そして親友。共に剣士であった二人。そのどちらも太刀打ちできなかった相手。
 魔法戦を主とする自分が、彼らの戦いを覆すことは難しいことであることは予想していた。
 ── くそっ…強い。今までの悪魔とは違う。
 その強さと存在の双方を全身で実感してしまう。
 妃砂もルインと宿敵との交戦を見て感じたのだろう。雷精霊は珍しくも厳しい声で主に告げる。
『悪魔の動きを止めないと勝機は薄いですよ』
「わかっている」
 近距離での戦いが続いてしまうとルインの勝率は下がる。魔法を打ち込む、突破口を見つけなければ。
 ここで屈するわけにはいかないと、ルインはぎりっと唇を噛みしめる。
 先程脇に入った痛みがズキズキするが構っていられない。自分がここまで来た意味を頭に思い浮かべ、ルインは杖の柄を地面に付けた。

 次なる魔法ロジックを組み立てていた時だ。ガロは想定外のことを口にした。
「あのさぁ、場所を変えないかい? 近くにとっておきの会場があるんだ」
「…何?」
「この通路だと正直僕は動きにくい。魔法を使う君も広い場所の方が良いだろう? 全力で僕と戦いたいのならね」
 そう言ってガロは翼を羽ばたかせると、ルインの方へ顔を向けたまま後方へと下がり始めた。ルインは魔法追撃を考えたが、やめた。悪魔の急な提案に戸惑いを隠せなかったのだ。
 確かにこの廊下は戦闘には向かない場所だった。それでもルインは不利な城内で悪魔との戦いを続けてきた。今さっき交わした戦いを考えると、現状優位なのは悪魔の方だ。わざわざ場所を変えようとは、やはり何かの罠では?誰もがそう考えることだろう。敵対者の言葉を素直に聞くはずがない。
 妃砂は警戒するルインに慎重な声で伝えた。
『確かに、この先には広い場所があるようです。他の悪魔の気配もありませんが…』
「……」
 ここは魔王城内、先を知るのは悪魔だけだった。あの悪魔は自分を戦いへ誘っているのだろう。どうする? 罠かもしれない船に乗るか否か。
 思考を廻らせ、後に続こうとしないルインの様子に気づいた悪魔は、一度翼を休めて首を傾げた。
「あー…罠があると疑っているの?この先にあるのは訓練場さ。まぁ、最近は訓練している奴なんていないから、安心しなよ」
「お前の言葉を、信じるとでも思っているのか…?」
 安心などできるはすがない。嫌悪の表情で答えるルインに、ガロはくすくす笑いながら言葉を返した。
「用心深いんだね。でも、僕は“仇”なんだろう?」
「……」
「そう睨まないでよ、僕は楽しみなんだ。先に行って君の到着を待っているよ♪」
 そう言ってガロは踵を返し、颯爽と飛び去った。

 ルインはしばらく緊張を解せずにいたが『もう大丈夫ですよ』と言う妃砂の声を聞いてやっと、構えていた杖を下ろした。
『今のうちに回復を』と、妃砂は手早く癒しの魔法を唱える。温かい光がルインの身体を包み込み、溜まっていた疲労を取り除いた。
 ルインは大きく息を吐く。
『傷は痛みますか?』
「少しだけ、でも大丈夫。それよりも妃砂……やっと見つけたんだ」
 紫色の瞳はギラリと強い光を宿す。この時をずっとずっと、待ち望んでいた。
『わかっていますよ、私だって忘れていません。でも気を付けて……彼は嗜虐的な悪魔。私たちのことは覚えていないでしょう』
「ああ、だからこそ倒す」
 ルインと妃砂は、同じ記憶を脳裏へ手繰り寄せた。


    *


 ── 緑葉の色が変わりゆく時期の、肌寒い季節。6年前のこと。

「ちょっとやり残した仕事があるんだ。ルインは先に行ってて、俺もすぐに帰るから」
 そう言って彼は手を振ると、その場を後にした。



「あいつ、遅いな」
『そうですね。ところでレディ』
「何だ?」
『遠くから精霊の声が聞こえるんです』
「声? …さっき、私の耳にも響いた声に関係あるのか?」
『それはわかりません。声の主も知らないですし……ですが、ずっと泣いているんです』
「……」
『なぜかはわかりませんが、気になってしまって』
「…行ってみようか」

 雷精霊と共に辿り着いた場所は、人通りのない街外れ。
 かすかに聞こえる声の元へ、妃砂は先に様子を見に行った。
 そこで目にしたものに愕然とする。状況を理解するには少し時間がかかり、その後に起こるであろうことを思うと、辛くなった。
 後から来たルインは立ち尽くしている精霊に「どうしたんだ?」と声をかける。
 はっとした妃砂は、近づく彼女を制止した。
『ルイン、来ない方が…』
「いったい何を見て…………これは、何で…」
 目の前の光景は、ルインの思考を止めるには十分すぎた。続ける言葉を失いかけるが、もしかしたらと思い、すぐに駆け寄った。嘘だと思いたかった。

 見知った蒼い髪の青年が、血に染まって倒れていた。

『ごめんなさい、きっと僕のせいだ』
 ぽつりと呟く声は、妃砂にしか聞こえていなかった。声の方を見やると、剣が落ちていた。青年が使っていたものだ。
 銀閃が瞬き、妃砂は気づいた。剣に宿る精霊がいる。
『君は、もしかして…』
『僕がもっと早く目覚めていれば、こうはならなかった』
『それは、どういう意味?』
 妃砂が尋ねた時、悲痛な声が辺りに響く。
「おい! しっかりしろっ!!」
 ルインは青年を抱き抱え、必死に声をかけていた。名前を何度も呼んだ。だが、返事はない。
 彼の体には、いくつも裂傷が刻まれていた。肌は冷たく指先一つ動かない、静かなままだ。整った顔に目立った傷はなく、綺麗だった。
「なぁ…いつまで黙っているんだ……お願いだ、何か応えて…」
 ルインは泣いていた。青年を抱えた時にわかってしまったのだ。否応にも目に映った胸の裂傷は流血が酷く、致命的なものだった。希望を持って癒しの魔法をかけるものの、その効果は瞬く間に消えてしまう。手遅れだった。
『ここで何があったんです? 話してくれませんか?』
 泣き崩れる主の様子が心配ではあったが、妃砂は剣に宿っている精霊に説明を求めた。だが、精霊は『僕が、僕のせいで』と自分のことを責めるばかりで、錯乱しているようだった。姿は見せないが、幼さのある声から察するに、まだ若い精霊だ。
 その時、空の方から声が聞こえた。
「無駄だよ。彼は僕と戦って、負けたんだ」
 音を立てずに飛んできた黒い影が、空から舞い降りてきた。

 灰色の髪の悪魔だ。

 ご丁寧にも、初対面ながら悪魔は自ら「僕はガロ、よろしくね魔導士さん」と友好的な雰囲気で名乗った。表情からこの場を楽しんでいることが伺えた。
「お前が、殺したのか…?」
 なぜ悪魔が単独でここにいるのか疑問に思いながらも、ルインの悲しみが怒りへと変わっていく。悪魔は嬉しそうに笑った。
「見ての通りさ。とても楽しませてくれたんだ。フフ、君が“ルイン”だろう?」
「なぜ私の名を…」
「礼を言うよ、君のお陰で最高な時間だった。彼は君のことをとても大事にしていたようだから」
「何を言って」
「人間ってさぁ……ほーんとにバカだよねぇ。そうは思わない?」
「何だと…!?」
「まぁいいや、それじゃあ僕は帰るよ、またね♪」
「え……あ、待て…!!」
 悪魔の話の筋が見えない。一方的に話されてしまい、ルインは怒りを覚えながらも混乱していた。
 ── 君のお陰で? まさか、私のせいで、彼は……
 だが、考えている時間はなかった。今逃がしてはならないと、ルインは飛び去ろうとする悪魔へ魔法を放った。黒い稲妻が悪魔めがけて鳴り落ちたが、焦って発した魔法は精査に欠けていたせいで、ひらりと回避されてしまう。
 悪魔は最後に一度だけ振り返って言った。
「そうそう、僕のこと恨んでる…? でもね、君とは戦わないよ。僕の目的は彼だけだからね」
 にんまりと笑う赤い瞳が、紫の瞳に強く焼き付いた。

 6年前の、黄葉の月の出来事。
 悪魔が去ったあと、いつの間にか雨が降り始めていた。
 悲しいことがあったこの場所を見て、一緒に泣いているかのようだ。
 取り残された魔導士は、青年を抱きしめたまま泣き叫んだ。



 ルインのもとへ、彼は帰ってこなかった。


    *


「妃砂、行くぞ」
『はい』
 消えない記憶と悲しみを抱いたまま、魔導士は宿敵の待つ訓練場へ向かった。

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