First Chronicle 魔導士ルイン
27. 過去との対面
ルインは夢を見ていた。
だが、それは夢ではなく、過去にあった現実だということを知っていた。
暗闇の中で知り得た色が幾重にも重なって見える。
鮮烈な印象を残す色はただ一つ。
赤、紅、緋、あか。
赤く染まる視界の先に、友がいた。
鮮血に彩られたオールドローズの長い髪が揺れている。草色の瞳が輝きを失いかけている。
それなのに、苦しそうな口元が伝うのは「助けて」ではなく、「逃げて」という言葉。
彼女の手を掴みたかったのに、それは届かなくて、なぜか身体をどんっと押されたかのように遠ざかってしまった。
違う…違うっ……私は、私は……!!!
助かりたかったんじゃないんだ。
いつのときも、父も母も兄も親友も仲間もすべて……皆を…
助けたかった……!!!!
心の底から出た声は闇の中で大きく響いた。
どこまでも、どこまでも続く同じ言葉の余韻は、自分の元へ帰ってくる。
それがとても息苦しい。
しかし、その中で自分以外の声が混じっていることを知った。
はじめは無駄な足掻きに等しい自分の声に耳を閉ざしていたために聞き分けられなかったのだが、自分の声ではないと分かった時から徐々に判別がつくようになる。
気が付けば、無意識に対話している自分の声が聞こえた。
最初は聞き覚えのある声との対話だった。
「ルインさん、大丈夫ですよ。これくらい、私は気にしていませんから…」
── 少しは気にしろ! お前がそんなんだから私が怒るんじゃないか。
「ふふふ、ルインさんって、とっても優しいですよね~」
── だからー! お前がのんびりしているから私が代わりにだな…!!
「何度も言ってるじゃないですか。大丈夫ですって」
── 大丈夫って…お前……。
「ルインさん、そんなに心配しないでください。本当に大丈夫なんです」
── アノア……?
『心配しないで……不安にならないで……大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ』
聞き覚えのある声は、いつしか聞き覚えのない声へと変わっていた。
── いったい、何が大丈夫なんだ…?
『なぜ、大丈夫じゃない…と思う?』
── だって、そうじゃないか。結局あいつは、アノアは……私の目の前で…。
『お前にとって“家族”や“友”、“仲間”は失いたくないものなのだな』
── 当然だ! 私じゃなくてもそう思うことは…。
『そうだな。それが大切なものを愛するお前の優しさなのだろう。だが…』
── …何が、言いたいんだ?
『その優しさが強すぎる上、お前は自身を苦しめていることを知っているか?』
── 私が、自分を苦しめている…?
『本人はそれを自覚していない、と。困った現状だ』
── ……私は…。
『しかし、幸いにもお前は恵まれている。すぐに己の状況に気づくだろう』
── 私が、恵まれているだって…? そんな馬鹿な冗談はやめろ。
『冗談ではない。さぁ…そろそろ時間だ。現実へ戻るとよい。続きはそれからだ』
── それはいったいどういう…?
知らぬうちに成立していた対話が終わった。
ルインの意識は暗闇の中に沈んでいく。
意識が失われるほんの一瞬、聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
それはとても懐かしい声色。
『ルインなら大丈夫だよ』
*
「気が付かれましたか? ルイン」
ルインが目覚めた先で目にしたのは、暗がりの中で自分の顔を覗き込む妃砂の顔だった。見慣れた顔なのに、なぜか、あまりにも優しそうな表情だったので、ルインは母の面影を重ねた。
「ルイン…?」
じっと見過ぎてしまったのか、妃砂が心配そうな顔を浮かべたのでルインは「いいや、なんでもない…」と言葉を返し、横たわっていた体を起こした。
しばらく気を失っていたことを思い出し、今自分がいる場所を見渡す。薄暗い物置と化している部屋の中。足元には赤い布が落ちていた。その先に自分が気を失う原因となった大きな鏡があった。
装飾であるはずの女悪魔の瞳が鈍い赤い光を灯している。気を失う前は全く気付くことができなかったが、不思議なことに、今となっては鏡自身から強い魔力が溢れていることが手に取るように分かった。
なぜ気付かなかったのか?
いや違う。相手の方が格上で、完全に気配を消されていたのだ。これこそまさに敵の罠。
「私に語りかけていたのは、鏡……お前か?」
一手やられた事実を受け止めたルインは鏡へ呼びかけた。
『そうだ。わらわの名はミラー。勝手ながらルイン、汝の記憶を見せてもらった』
「……」
鏡は赤い瞳を強く光らせて応えた。表情が伺えないとはいえ、鏡の声色が若干笑いを含んでいるような気がしてルインは口を閉ざす。それを見据えていたかのように、鏡は言葉を続けた。
『汝の記憶は悲壮と憎悪に満ちている。悪魔に対する憎しみは、良く理解した』
「それでも私は……恵まれていると、お前は言っていたな」
『そうだ。汝の悪い癖は、自分を評価しないこと。なぜ己を責め続ける? 心に闇を抱えていてはこの先 ──』
『魔王に勝つことは皆無』
鏡の発言に、ルインはハッとして目が覚めた。まさか、魔王城にまで来て「魔王に勝てない」と言われるとは思っていなかったからだ。今日のこの日のためにどれだけの時間を費やしたことか。それを赤の他人に否定される筋合いはない。普段のルインであれば馬鹿馬鹿しいと反論するはずだった。
だが、先の夢とその内面を知る鏡の存在は、不思議なことに否定することを拒んでいた。
ルイン自身もなぜだかわからない。鏡の言葉は心に響く何かを持っていたのだろう。そのせいで、他人に対して滅多に心を開かないルインは素直に応える気持ちを抱き始めていた。
「私の心に“闇”…」
『悲観的な想いはすべて闇と化す。他の世界ではどうあれこの魔界ではそうだ。そして、魔の者はそれを好む』
「闇に浸食されたものは魔界に食われる…ということか」
『その通り。ルイン、汝が抱えている闇はずっと一人きりで背負っている、だからこそ余計に闇は強くなる。悪いことは言わない。少しでもこの場で明かしてはどうだ? 汝の隣にいる雷霊も知らぬのだろう、大層心配しておるぞ』
ミラーに言われて妃砂の顔を見ると言われた通りのようで、不安げな表情を浮かべながらもルインを気遣った。
「確かに私はルインと出会う前のことは知りません。でも無理に話さなくても構いません。過去を話さないことを理由に私が貴方へ抱く信頼は壊れるものではないから…」
ルインは妃砂の顔を見やり、うつむいた。
しばしの間考えて、すぐに顔を上げた。
妃砂には出会ってから一度も過去のことを話したことがない。彼に聞かれても自分は首を振るばかりで答えたことがない……いや、答えるつもりは一切なかったのだ。なのに、妃砂はいつから自分のことを信頼できる人間だと思ったのだろう。契約しているからか? いいや、そうではない。そうではないことを一番よくわかっているのは自分ではないか。
知らずうちに得ていた妃砂の信頼をここで裏切るわけにはいかない。
「ありがとう妃砂。…アノアのことは、話したことはなかったな。アノアは、私がエンデバーグへ向かう道中で出会った療術士。討伐隊でも同じ所属になった仲間だ。でも、隊に入って初めて参加した魔物討伐遠征で、彼女は……死んでしまった…」
遠い過去の記憶を脳裏でなぞりながら、ルインは口を開いた。
エンデバーグ軍による魔物討伐遠征は、王国を囲む防衛壁を超えた先で行う討伐任務だった。任務遂行の中心となるのは軍の主力を担う第2・第3部隊と一般の志願者で構成される討伐隊である。通常、第2部隊・第3部隊・討伐隊の順で前線陣営が展開されるが、討伐隊の中でも戦力として有能と判断された一部の者は少数部隊を編成し、先行する第2・第3部隊の攻撃支援へ就くことになっていた。
当時のルインとアノアは少数部隊所属となり第3部隊の配下にいた。
前線で魔物や悪魔と戦闘を行うのは第2部隊の役割であり、普段の討伐遠征であれば第3部隊は支援中心となって直接戦闘に加わることは少なかったのだが、この時は出会った敵が悪かった。
「伝令!伝令です!前線拠点より大型の魔物が多数出現っ!ジオ部隊長よりフェイガ部隊長へ要請命令!!第3部隊は直ちに戦闘配置に就け!!!」
慌てふためいた様子で現れた伝令兵の一声により、第3部隊は急きょ支援配置から戦闘配置へ就くべく次々と前線へ進み始めた。
「討伐隊少数部隊は後方より第3部隊の支援を行う! 状況は緊迫しているが、冷静になって対応せよ!!」
第3部隊で討伐隊の少数部隊指揮を行う上官はルインたちにそう命じ、馬の歩を進める。
初めての討伐遠征で、突然の戦闘配置。討伐任務では道中何があってもおかしくないのが普通であるが、入隊間もない者にとっては常に緊張と不安がまとわりついたことだろう。それはルインも同じといえる。しかし、自分は戦うためにここへ来たはずだ! そう言い聞かせると自然に不安は薄れ、自分が今すべきことへ集中することができた。
ルインは指示通り前へ進み、前方で戦う第3部隊の支援を行うために支援補助魔法や遠距離対応魔法などを展開させた。療術を得意とするアノアは主に前線から下がってきた負傷者の手当てに回っていた。
第3部隊が前線へ加わることにより軍の戦力は優位に働いた。
まもなくすると前線での戦闘は減り始め、のちに撤退命令が出された。
ルインが空を見上げるアノアを見かけたのは撤退する最中のことだった。
── …アノア、いったい何をして……?
ルインとアノアの部隊配置は全軍中最も東側だった。東はわりと安全とされる領域である。撤退命令が出された今、多少の出遅れは問題ない。ルインは撤退指示に気付いていないのかと思いアノアに手を振ろうとしたが、異変に気づき顔が強張った。
撤退する多くの兵を横目にルインが見たものは、突如上空より飛来した魔物の群れ。その群れが今、アノアを含む負傷者を抱えた部隊へ襲いかかろうとしていた。
「私と近くにいた数人はすぐに救援へ向かうことができた。でも最初の一撃は間に合わず、アノアは負傷者を守ろうとして盾になった。私は真っ先にアノアを助けようとしたが、彼女は自分が身代わりになって魔物を引き付けるためにそれを拒んだ。魔物は後から下がってきた軍の騎士たちによって倒されたけれど、私は結局、アノアを救うことが出来なかった…」
心の奥底に閉まっていた過去を明かしたルインは少しだけ憔悴したような表情だった。やはりあまり思い出したくない記憶であっただろう。だからこそ妃砂は彼女へ敬意を示すために頭を下げた。
「ルイン、話してくださりありがとうございます……辛かったでしょうに…」
「当時はいかに自分が無力なのかということを思い知らされた気がして…ずっと嫌気がさしていた。せっかく念願であった隊に入ったというのに…自分は目の前の友人一人救えなかったんだ」
「ルインが悪いわけでは…」
「それはわかっている。でも、あの時自分にもっと力があればアノアを救えたはずなんだ、そう思うととても悔しくて…だから今でも…」
普段は冷静沈着であるルインが時折精神を取り乱すのは決まって過去の記憶に触れた時だった。何も出来なかった無力な自分を思い出してしまい、それを目の前の現実と重ねてしまう癖がある。修業中、どうにかその悪い癖を克服しようとはしたが、心に刻まれた傷はそう簡単に拭えるものではなかった。
ルインの精神上の悪い癖については妃砂も気付いてはいた。魔王城に来てからも何度かあったことだ。その時妃砂が出来ることといえばルインを正気に戻すこと、目の前の現実だけに引き戻すことしか出来ない。
『なるほどな…だが、それがあったこそ汝はここにいるのではないか?』
二人の会話を聞いていたミラーは諭すように言葉を投げかけた。
『無力な自分がいたからこそ汝は強くなろうと努力を注いだ。そして、遂にはここまで辿りついたのだ。汝にとって辛いことには変わりはないが、決して悪い過去ではない。すべての事象は現在に繋がり、未来へ導くものだ』
── すべての過去には意味がある。
そう締めくくるミラーの言葉に、うつむきがちなルインの表情は少しだけ和らいだ。
「そう…だな…」
ルインを励ますように妃砂も続いた。
「何度も言っていますけどルインは一人ではありませんよ? 少なくとも私はずっとそばにいますから…それを忘れないでくださいね」
「ああ、妃砂。ありがとう。正直なところ今でも昔のことは思い出すと辛い。けれど、誰かが近くにいるというのは……悪くはないな」
思いがけないルインの言葉に妃砂は驚いた。そして、それはすぐに喜びへと変わった。
「レディがいつもこんなに素直ならいいのに」
「どういう意味だ?」
「ふふ、言葉の通りですよ!」
そう言って妃砂はルインに無理やり抱きついた。「よせ!」と嫌がるルインであったが、つかの間の休息に内心ホッと安堵する。
この先、さらに厳しい戦いが待ち受けていることを胸に刻みながら。
*
彼らの言葉をじっと聞いていた。
「自分は目の前の友人一人救えなかった」
彼女の言葉に少しだけ少年の心が揺らぐ。
── 僕も同じだった。目の前の人を救えなかった…!!
でも、あの人の言葉を忘れたわけじゃない。
「リムセア、押しつけのようで悪いけど……あいつの、ルインのこと…頼むよ」
わかっている。わかっているんだ。僕は彼女の助けにならなければならない。
でも、どうしようもないくらい自分の身体は動こうとしなかった。力が出てこないのだ。
助けないと……でも今の僕は………。
── 無力。
きっとまた足手まといになってしまう。
無意味になってしまうのではないか。
同じ悲しみはもう嫌だ。
そんな恐怖が小さく蹲る少年を闇の奥深くへと包み込む。
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