First Chronicle 魔導士ルイン
26. 魔鏡
「私はイェルガ様のような神官魔導士になりたいと思っているの」
将来の夢を語る少女はいつも笑顔を絶やさなかった。彼女は魔物や悪魔を倒すことはできなかったが、光の護符を得た癒しの力は多くの仲間を助けることに役立った。時々失敗することもあるけれど、彼女は本当に頑張っていた。
「ルインさんも、怪我をした時はすぐ私に言ってくださいね?」
きっとこの先、皆から愛される素敵な神官になるのだろう。そんなことをルインは思っていた。彼女はお節介なくらい世話好きで、優しくて……でも、その性格が災いしたのかと思うと、とても悲しくなる。
気付いた時は、手遅れだったなんて。
+ + +
知らずうちに頬は濡れていた。ルインは吸い込まれるように鏡を見つめる。
「……アノア…」
語りかけると、鏡の中の少女 ── アノアは昔と変わらない柔らかな表情で微笑んでいた。
アノアはルインにとって初めての友達だった。歳は自分よりひとつ下だったために、彼女は自分に対して常に敬語だったことを思い出す。それでもアノアは心の隔たりを感じさせない明るい性格の人間だった。同じ魔法を行使する者としてルインと仲良くなり、討伐隊入隊後も一緒に行動することが多かった。
しかし、それも僅かな間だけだった。
討伐隊として初めて参加した戦闘で、彼女は……
死んだ。
ルインの目の前で。
なぜ今、ここに彼女が現れているのだろうとルインは考える。
だがすぐに愚問だと気付き、己を責めた。
きっと、自分が生きているからだ…。
アノアは自分を責めているのだろうか。散々正義を謳っておきながら、肝心な時に無力な人間なのね。そう思って笑っているのかもしれない。
── 私は今もまだ、無力なのか…?
過去に残る後悔は心の中に深く刻まれたまま。
鏡を見つめるルインの瞳は、光を見失っていた。
妃砂は尋常ではない事態を感じ取っていた。
「ルイン!? ルインしっかりしてくださいっ!!」
彼は何度も主の名を呼んでいるのだが、自分の腕の中にいるルインは蒼白な顔色を浮かべて涙を流すだけだった。これはまさに危機的状況。自分の声が届いていないその様子は、まるで鏡の中の何かに囚われている状態だ。鏡の中にはルインしか映っていない…………ように見える。
けれど妃砂は、この鏡から次第に何らかの気配を感じていた。じわじわと辺りを包み込むような感覚。良いとも悪いとも判別が付かない不思議な気配だが、自分たちが敵の塒・魔王城にいることを考えると悪いものに違いないだろう。
── このままではルインが危ない…!
意を決した妃砂は片手に雷を呼び起こし、狙いを鏡へ定める。ルインがこうなった原因は鏡を見たからなのだ。あの鏡を壊せばもしかしたら正気に…。
だが、その目論見は低い声に遮られることとなった。
『雷霊よ、やめておけ。鏡を壊せば彼女の精神も共に壊れてしまうぞ?』
「!!」
どこからか聞こえた声に妃砂は警戒姿勢を露わにした。片手は雷を纏ったままバリバリと音を響かせる。殺気を剥き出す妃砂は敵を探そうと辺りを伺った。すると、声の出所はすぐ近く……鏡自身であることが分かった。
装飾フレームの一部である女悪魔の瞳には赤い宝石が埋め込まれている。その片目が今、鈍いながらも怪しい光を放っていることに気付いた。
「何者だ…!? お前、彼女にいったい何をした?」
『くくく…そういきりだつでない、坊や。わらわはただ、その人間の過去を汲んだまで』
アルトがかった鏡の声はとても落ち着き払っていた。妃砂の鋭い眉間を物ともせず、まるで子供を宥めるかのような女の声色。だからこそ守護精霊の警戒心も一層上がる。
妃砂はルインを護るように抱きかかえて、片腕の威嚇を表したまま相手へ疑問を返した。
「過去を、汲んだ?」
『わらわは、鏡に映った者の心を本人の意思に関わらず読み解くことが出来るのだ。例えば、他人に晒したくない深層心理レベルの記憶も辿ることが出来る。……その人間は、辛い過去を持ち合わせているようだな』
「…なるほど、無断で彼女の記憶を覗いたってことか」
『ふふ、心配するな。わらわは主らに危害を加えるつもりはない』
「そう言い切れる保証があるとでも言うのか?」
『…ほう、随分とその人間を慕っているようだな。同士としては感心するものに値する』
「同士? まさかお前も、宿霊か…?」
妃砂の問いに鏡はしばし口を噤む。間を空けてからやがて、穏やかな声色が言葉を紡いだ。
『宿霊だったのは遠い昔のこと……わらわはリーザ様の魔装品に過ぎない』
「…リーザ?」
『リーザ様、もとい…今は亡き魔王妃 ── ラギシェリーザ様だ』
思いがけない言葉に妃砂は口を閉ざした。
ルインを抱えたまま紫色の瞳は鋭利な光を放って鏡を睨みつけている。
相手は自ら魔王妃のものだと名乗ったのだ。
つまりは、ルインに仇名す敵なのか…?
交わした言葉はなかった。だが鏡は、妃砂の心さえも読むように言葉を紡ぐ。
『先も言ったが、わらわは主らに危害を加えることない。無論、危機へ晒すこともしない。これは精霊の言葉として断言しよう。誓約として捉えてもらって構わない…………ああそうか、リーザ様がひっかかっているのだな? それも心配するな、リーザ様はもういない。随分昔に病でこの世を去ったのだからな。故にわらわと契約する者は誰一人として現存しない……わらわは、主らと敵対する気持ちは微塵もないのだ』
聞いてもいないことを次々に並べられて妃砂は少したじろいだ。この鏡は精霊である自分の心のうちまで読めるというのか。そして不覚にも、鏡の言葉は妃砂とルインの安全を確立させるものでもあった。
“誓約”という言葉は、そう易々と口に出来るものではない。
誓約を掲げた以上、鏡は己の言葉を一貫しなければならないのだ。
何者であろうとも取り消すことができない。
それが“誓約”という言葉が成す大きな力。
しかし、鏡が魔王妃のものであった事実はどうなのか? 魔王妃というのは魔王にもっとも近い存在であるはずだ。今はもう亡くなったと言ってはいるが……それでも、ルインが仇名す敵との配偶者、悪魔側であることに変わりない。
妃砂は抱きかかえるルインを見た。虚ろだった瞳は閉じられていて全身の力が抜けている。気を失っているようだ。彼女が目覚めた時、鏡の正体を知ったらどう思うのだろうか? 過去を覗かれたのが敵だと知れば再び精神は乱されるのではないだろうか…。
妃砂は今、ルインのことが一番心配だった。
ルインを大事そうに抱える妃砂を見ていた鏡は、その心情を悟り、言葉を紡ぐ。
『その人間には悪いことをした……興味本位に過去を視たことは謝罪しよう。だが勘違いしないで欲しい。わらわは人の心を読むと同時に、それを理解し和らげることもできる』
鏡の言葉に妃砂は思わず顔を上げた。
「…どういう意味だ?」
『一方的に記憶を辿るだけがわらわの力ではない。本来は不調となる心の元凶を突き止めて解消させる……心療能力なのだ』
妃砂はますます怪訝になっていた。
「……何のためだ。何のためにお前は私たちに関わろうとしている? 先の誓約もそうだ。お前は魔界側の者だろう? 敵視するなら未だしも……好意を向けているように思える。私には、そうする目的が理解できない」
鏡は人の心を読む。ならばルインが魔王を倒すために魔界へ来たことを知っているはずだ。しかし、鏡はルインと妃砂に危害は加えないと言った上に、今度はルインの精神を癒そうとしている。対立関係を考えるならば、とても信じられることではない。
妃砂が鏡を睨みつづけていると、相手はほんの少しだけ憔悴に似た雰囲気を漂わせていた。そこには自分たちに対する敵意が微塵も感じられなかった。
やや間を空けてから鏡は口を開いた。
『わらわは、主らと話がしたいだけだ。実をいうと、こうして言葉を交わすことさえ久しくてな……あれから幾年の時が経ったのだろうか』
+ + +
鏡は元々魔王妃となる前の女悪魔・ラキシェリーザに従う精霊 ── 使い魔だった。どういう運命の道しるべだったのか。ラギシェリーザは魔王へ嫁ぐこととなった。以来使い魔は、妃が自宅から持ち込んだ鏡を塒として従順し続けた。
魔王妃となってもラキシェリーザとの付き合いは変わることがなく、彼女と使い魔はこの上なく仲のよい友だった。それが永遠に続くと思われていた。
しかし、転機はやってきた。
ラキシェリーザは魔界では治療不可とされる病にかかってしまい、時が経つにつれ命は蝕まれた。
やがて、彼女と別れる日が訪れ、魔王は早すぎる妻の死にショックを受け、息子は声を上げて泣き続けた。使い魔自身も見守ることしか出来なかった彼女の死を酷く痛み、それでも彼女が残した者たちを慰めようと尽くした。
だが、ある日のことだった。
何の前触れもなく魔王配下のものたちが魔王妃の部屋を片付け始めた。この時使い魔は、長い間身体を鏡へ預けていたせいで融合していた。いざ実体化しようとしても鏡から抜け出すことが出来なかったのだ。自ら動くことができない状態 ── 魔装品となったことを初めて自覚した。
親しい友の私物を整理し始める魔王配下の行動を黙って見ていることは許しがたいことだった。だが、鏡と融合した身体はいうことをきかない。抵抗の言葉を投げるものの不動の身体ではどうすることもできず、結局使い魔は、魔王妃の記憶をすべて抹消されるかのように閉ざされた場所へ封じられた。
魔王城における魔王妃の思い出は今や忘れられた倉庫と化し、近寄るものはいない。
訪れるもののいなくなった部屋の中で、使いようのない魔力は溜まるばかりだった。
尽きることのない魔力を糧にする鏡は、ただ一人生き続けていた。
+ + +
『……わらわが生涯尽くすのはラキシェリーザ様だけ。そう誓った。叶うのならば自ら命を投げ出したいのが本望だ。しかしここに在る魔力は失うことを知らない。魔力がある限り、わらわはどうやっても生き続けるほかないというわけだ。だからこそ彼女がいない世界となった今、わらわにとって悪魔だろうと人間だろうと種族間の闘争はどうでもいい。その人間の宿霊である汝ならば、わかることであろう?』
己の経緯を語り終えた鏡は、飾りであるはずの悪魔の瞳を鈍く光らせ、気を失っているルインを見ているようだった。妃砂はルインを抱えたまま、鏡の言葉に不服ながらも納得せざる得なかった。
妃砂も鏡と同じだった。自分が契約するのはルインだけだ。もしもルインが悪魔だったなら敵対する天使、あるいは人間と戦うのだろう。今は悪魔を憎む人間であるから悪魔と戦っている。人に憑く精霊にとって敵や味方の判断は、主従する者にすべて委ねられるのがほとんどだ。
鏡にとって中心となるのは魔王妃ラギシェリーザだった。
だが、今はいない。
だから誰の味方でもないし、敵でもないのだ。
それが、突然部屋を訪れた余所者であるはずのルインと妃砂を拒まない理由だった。
鏡は柔らかな口調で気遣った。
『その人間は相当疲労が溜まっている。ここで休ませるとよいぞ。もちろん無理にとは言わないが……このまま行けば彼女の精神は非常に危ういところへ進むばかりだぞ? そうなる理由は汝の方が理解しているはずだ。どうせここへ足を踏み入る悪魔はいないのだ。隠れ蓑にはなる』
妃砂は鏡の言葉を拒絶することが出来なかった。鏡の言うとおり、城内で戦い続けたルインの疲労は体力にしろ精神にしろ人間という生命の限界に近い。だから、本音を言うと、鏡がこちらの味方になろうとしていることは歓迎すべきことだった。例え一時的だとしてもだ。
妃砂は周囲に気を巡らせた。余計なことだろうとは思ったが、何事も自分で確認してから現状を把握するのが妃砂の信条である。その結果、鏡の言うとおり、この辺りを徘徊する悪魔はいないようだった。
安堵した妃砂は静かにルインを床へ眠らせて、回復を待つことにした。
そして思い立ったように口を開いた。
「そういえば“貴方”の名前は…?」
『くく、ようやく尋ねてきたか。わらわのことは“ミラー”と呼ぶがよい、雷光の妃砂』
「それは……真の名前ではない、な」
『今となっては語るような真名ではない。……だが、まぁ特別に教えよう。かつての名は、グリューエンド・ミルザという』
「グリューエンド……なるほど、そうか。覚えておくよ、ミラー」
『ふふふ、やはり言葉を交わすのは良いものだな』
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