First Chronicle 魔導士ルイン
25. 隠れ部屋で
妃砂の導きでルインはとある部屋に辿り着いた。鍵が掛かっていたのだが、妃砂が中へ入ることで解決する。カチャ、と音を立てて扉は開いた。
逃げ込んだ先は明かりの無い部屋だった。ルインは手探りで部屋の奥へ行く。高鳴る鼓動を落ち着かせるように息を潜める。時の経過とともに扉の外では悪魔の行き交う音が聞こえてきた。隠れるように屈んだルインは杖を強く握りしめて静かに蹲る。どうか、やり過ごせますように……そう願いながら。
しばらくすると物音は聞こえなくなった。外の様子を伺っていた妃砂はルインに告げる。
『もう大丈夫でしょう。ここに気付かなかったようです』
「…そう、か」
胸に残る緊張感はすぐには消えない。けれど、妃砂の言葉に安堵したルインはようやく息を吐いた。本当に危ないところだった。
落ち着きを取り戻すためにルインは暗い部屋の片隅で座っていた。左腕に滲む血を拭い、慣れた手付きで止血する。薬草で拵えた軟膏を傷口に塗ると鋭い痛みとしびれに襲われた。その時、ルインはハッとなって傷口を見つめる。治療の手が止まった。
「妃砂、悪魔は本当に気付いていないのか…?」
小さな声には不安の色が含まれていた。主の問いに、妃砂はもう一度を感覚を巡らせてから答えを返す。
「気配はありません。大丈夫です。……もしかして、“血”ですか?」
「…ああ」
悪魔は人間より鼻が利く。そして彼らは血の臭いを好む傾向にある。だからルインは急に不安を感じたのだ。敵は自分が負った鮮血を辿ってくるのではないか、と。
だが、妃砂が大丈夫というのなら心配はいらない。ルインが抱く彼への信頼に間違いはないから。
ルインは傷口の手当てを終えると、消費した魔力を補うために錠剤を飲む。相変わらず苦味の強い薬は、疲労で眠りそうなルインの目を覚ますことにも一役買っていた。これを作った友人は、自分がこうなることまで考えていたのだろうか。
── メルの奴…。
自分を応援し、帰りを待っているだろう友人の顔を頭に思い浮かべたルインはくすりと笑う。最初こそ気が合わず、口を開けば喧嘩ばかりしていたのに……今となっては、何でも言い合える仲だった。彼女が自分に押しつけるセンスには理解しがたいものがあるが。
友人は遠い場所にいながらも、何度もルインを助けてくれている。自分はそれに応える義務がある。だからまだ、倒れるわけにはいかない。
ある程度回復を済ませたルインは部屋の中を探ることにした。杖に灯した小さな明かりを頼りに辺りを伺う。
「ここは……物置きのようだな」
『そうですね』
明かりで浮かび上がる視界には、古びた本棚や壊れた家具などが置かれていた。どれもこれも埃が被っている。随分昔から放置されたままになっているようだ。
その中に、赤い布で覆われた大きなものがあった。布の縁には金糸の刺繍が入っていて、よく見ると普通の生地ではないように思える。
興味を覚えたルインは片手を伸ばして布に触れていた。表面はとても滑らかで心地良い。そして、感じる。
── この布、魔力が含まれているな。
貴重品の類でも包んでいるのだろうか。いやしかし、貴重品であるならこんなところに放置するはずがない。いったい何だろう?
ルインは関心の向くままに軽く布を捲る。
「これ、何だと思う…?」
『さぁ……美術品か何かを保護しているものでは?』
「美術品、か……」
『ルイン? あまり触らない方が良いと思いますよ』
「そうだな」
しかし、ルインがその場を離れようとした矢先に、覆い布は何かの拍子でするすると滑り落ちてしまった。足元に落ちた布を拾い上げながらルインは、目の前に現れたものを見た。
そこにあったものは……。
「…!?」
驚いたルインは布を放り出して後ずさっていた。無意識のうちに杖を構えて臨戦態勢になる。だが、すぐに気付いた。
「……? ………ああ何だ、自分…か」
『これは、鏡ですね』
布の中から現れたのは大きな鏡だった。不思議な植物や牙を剥く魔物、女悪魔の裸体といった装飾がフレーム全体に施されていて、ところどころに赤や青といった色のある宝石も埋め込まれている。彫刻で彩られた囲いの中には濁り一つ見当たらない反射鏡が入っていた。そこには今、光を灯すルインの姿が映っている。
黒い髪に、紫色の瞳を持つ人間がただ一人。まさか、自分の姿に恐れを成すとは情けない。
そんなことを考えながらルインは鏡を眺めた。もう一人の自分は、同じような行動でルインを見つめ返している。鏡なのだから当然だ。
しかし、不思議な違和感を覚えた。
── あれ、今…私は笑っただろうか…?
首を傾げたルインは鏡の自分を見つめる。笑った覚えが無いのに、目の前の自分が笑みを浮かべていたように見えた。けれど今は、鏡の自分も同じように首を傾げていて、思案するような表情を向けている。
── ……気のせいか…。
そう思った時。
「…!!?」
ルインは再び身体を強張らせる。視線を合わせるもう一人の自分が……やはり笑っていたからだ。覚えのない自分の表情を見たルインは思わず口元に手を触れる。鏡のルインも同じ行動をとった。が、鏡の彼女は口元に寄せた手を不意に離し、くすくすと肩を震わせて笑っていた。背筋にぞわりと寒気が走る。
── なんだ、これは…?
自分なのに自分ではない者がいる。いや、自分が意識していないだけで、これが本当の自分なのか?
戸惑いを隠せないルインをあざ笑うかのように、鏡の中の魔導士は微笑を浮かべたままその場でくるりと一回りしてみせた。反動で衣や黒髪が揺れ動く。当のルインは、一歩も動いてはいないのに。
「…っ…!?」
再び紫の瞳と視線が合った時、ルインの脳裏に劈くような痛みが走り始めた。激しい頭痛に伴って、酷い立ち眩みに襲われる。頭がくらくらして立っていられなくなる。視界に闇が迫ろうとしている…。
「!! ルイン、大丈夫ですか?」
突然よろけるルインを見た妃砂は、咄嗟に実体化して倒れかけた彼女を支えた。顔を覗き見ると、ルインは苦痛の顔色を浮かべている。さっき回復したばかりだというのに、急に具合が悪くなったのか? それとも…?
思い当った妃砂はルインが見ていた鏡を確かめた。しかしそこに映るのはルインの姿と、彼女を支える実体化した自分の姿だけだ。変わったものは、何一つ映ってはいない。
「いったい……?」
妃砂には、ルインが見る鏡の世界が見えていなかった。
「うう…」
ルインは妃砂の肩を借りてどうにか身体を起こす。妃砂が傍で何か言っているようなのだが、なぜか耳に入ってこなかった。まだ頭がくらくらする。そのせいなのか…?
痛む頭を片手で抱えたルインは気力を振り絞って再度鏡を見る。あの鏡には“何か”がある。その“何か”を確かめなくてはいけない……そんなことを思った。
暗い部屋に佇む一基の鏡。
曇りひとつ無く、視界を反射する鏡の表面。
そこにいたのは自分………
………では無かった。
ルインは目を瞠った。
鏡の中には、いつのまにか違う人物が立っていたからだ。
紫の瞳が捉えたのは、巻き癖のあるオールドローズの髪だった。
花びらが風で靡くように、柔らかい髪はふわりと揺れる。
その中で覗く、草色の瞳は優しい眼差しで笑っていた。
「ルインさん、こんなところで何をなさっているのですか?」
聞き覚えのある、明るい声だった。
薄れつつある意識の中でルインははっきりと認識する。
彼女のことは知っていた。覚えている。忘れていない……忘れるはずがないのだ。
ルインは少女の名前を呟いていた。
「……アノア」
+ + +
それはアラムハインからエンデバーグへ行く精霊列車 ── 通称・フォースレールに乗車した時のことだった。
この日を待ち望んでいたルインは寝台車の一室で外を眺めていた。次々と景色が過ぎ去っては、新しい景色が視界の中へ飛び込んでくる。都会の街並みを過ぎた後に訪れたのは、緑溢れる大自然だ。群れる獣たち、空を掛ける渡り鳥、陽を反射する大きな湖……ヴァーツィアという世界の景色はどこまでも果てしない。
これからどんな生活が待っているのだろう。兄さんには逢えるだろうか。先のことに期待を寄せるルインの心は躍っていた。しかし、旅はまだ始まったばかり。目的地であるエンデバーグ王国に到着するまでは数日を要するので、景色を堪能したルインはしばらくすると、鞄の中から本を数冊取り出して読み始めた。
「あの…すみません。ここの寝台室、ご一緒しても良いですか?」
ルインが劇場雑誌を読んでいた時だ。声と共に車両通路から顔を出したのは自分と同じ年くらいの少女だった。大きな旅行鞄を抱えているところを見ると、彼女も長旅の途中らしい。
すぐに雑誌を閉じたルインは迷うことなく頷いた。
「ああ構わない。今私の荷物を避けるから少し待っててくれ」
「はい! 良かった…ありがとうございます」
ルインの言葉が余程嬉しかったのだろう。その少女は満面の笑みでお辞儀をした。
これが、ルインと少女 ── アノアの出逢いだった。
列車に揺れながら言葉を交わす二人は、旅の目的が互いに同じと知って気が合う仲となった。ルインは魔王軍討伐隊の魔導士となるために、アノアも同じ隊の療術士となるためにエンデバーグへ行く。ルインは敵を殲滅する攻撃魔法を得意とするのに対して、アノアは保守的な役割を果たす支援・回復魔法が得意だった。対称的な性質ではあったが、それでも同じ魔法を行使する者であることに違いはない。
エンデバーグへ到着する頃、二人はすっかり友達になっていた。ルインにとってはこの上なく新鮮な出来事だ。アラムハインの魔法学校では勉学へ専念するあまり、友達を作る余裕が無かったのだが……新しい旅路はまさに、新しい自分の出発点となっていた。
しかし、討伐隊へ入隊して数日後。
ルインは想像を絶する喪失を背負うことになるなんて……考えもしなかった。
なぜ…なぜだ……?
あれは嘘だ…嫌だ………信じたくない!
だって、どうして…どうして? どうしてなんだ…!?
ついさっきまで、君は笑っていたのに。
私の、すぐそばにいたのに。
結局、私は……何ひとつ…。
「…っ……駄目…ルインさん……早く、逃げて…」
「馬鹿を言うなっ! お前を置いて行けるわけないだろう!!」
「大丈夫…私のことは、もう……お願いルインさん……先に」
「おい、アノア? アノア…!!」
「…私は、大丈夫なんです。だから… ──」
ルインが最後に見たのは、
血に濡れても尚、必死に自分を逃がそうとする友人の姿だった。
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