First Chronicle 魔導士ルイン

22. 城内迷路

 緊張の時は迫る。闇の奥に潜むのは、冥府への誘いか否か……。



 ── 魔王城1階・西側廊下 ──

 ひゅおっ

「…?」
 廊下を歩く二人の悪魔の間に風が走る。彼らの髪は後ろに靡き、軍服の裾がひらりと舞った。いったい何事だ…? 悪魔は来た道を振り返る。赤目の先にあるのは見慣れた魔王城の廊下だけだ。誰かが間を過ったような感覚はあったのだが、ここにいるのは彼ら二人の悪魔だけだった。
 片方の悪魔は合点がいかず、首を傾げた。
「今の風は何だ?」
「…さぁ? どっかの部屋の窓が開けっぱなしになっているんじゃねーの?」
 疑問に答える悪魔はたいして気にする様子はなく、どうでもいいとばかりに肩を竦める。
「それよりも早く行こうぜ。時間に遅れたらまた怒られちまう」
「…そうだな」
 己の任務を思い出した彼らは、再び廊下を歩き始めた。



 遠ざかってゆく悪魔の背中。それをしばし眺めていた妃砂は『ふふ、惜しいですねぇ』と面白そうに声を零す。しかし余裕を振りまく彼とは裏腹に、ルインは何一つ応じることなく灯りの影を縫うように城内を進んでいた。
 彼女の視界には、下級悪魔の姿など入らないのだろう。今、紫の瞳が求めているのは……。
『レディ、焦ってはいけませんよ?』
「それはわかっている。でも時間がない……早く見つけないと」

 廊下に続くのは闇に沈む赤墨色の壁。仄かに灯る松明の灯りは、人間の視界にとって十分といえる光源では無かった。揺らぐ橙色の炎が広がる先にあるのはただただ深い闇。奥へ、奥へと続く灯りはまるで無限の闇へと吸い込まれるようだ。
 ルインが廊下の交差点に差し掛かった時、妃砂は再び口を開いた。
『この先は多くの悪魔が行き交っているようです…ルイン、気をつけて』
「………」
 返事は無い。だが、ルインは小さく頷くと慎重に廊下を辿り始める。
 妃砂の言葉通り、廊下の先には多くの悪魔たちが行き交っていた。同じ黒の軍服を着こんだ悪魔は城の兵士である。彼らの腰には剣鞘、あるいは手に槍を携えていた。城内の警備に勤しむ者がいれば、立ち止まって会話に忙しい者、先を急ぎ廊下の宙を行く悪魔もいた。使用人の悪魔は軍服とはまた違う衣を纏い、仕事道具一式を運んでは各部屋へと赴いているらしい。掃除や荷物運搬等で城内を巡回しているのだろう。
 これが魔王城の日常風景。
 暮らす世界、住む人種が違うことを除けば……人間の日常と何ら変わりのない風景だ。
 そんな悪魔たちの日常の中へルインは溶け込んでいた。悪魔たちの間を風のようにすり抜けて先を行く。明らかに悪魔以外の者がいるというのに、彼女の存在に気付く悪魔はいない。その理由は、ルインが己の存在を周りから遮断する魔法を使っているからだった。

 偽りの陰 ── フェイクアウトサイレント

 それは、難解な知識が必要とされる高位魔法。
 外気より混ざる孤独な風は、敵陣を欺き、静かなる真義を貫く ── 元エンデバーグ王国魔導士クライス・E・ローズレッドはこう記している。

 ルインは魔界へ行くと決めた時から、憧れの魔導士が記したこの魔法を脳裏に描いていた。彼女が討つべき悪魔は、ただの悪魔ではない。魔界の頂点を統べる者なのだ。
 しかし、魔界へ行けば嫌でも多くの悪魔とすれ違うことになる。ルインは彼らを根絶やしにしたい気持ちを持ち合わせてはいるが、討つべき者のことを考えると一人一人構う余裕はなかった。だからこそ回避するための戦術が不可欠だ。
 この魔法は最初、魔界の街へ侵入する際に使う予定だったが、妃砂の機転により使うことはなかった。今考えてみると、あの時の選択は正解だったのかもしれない……と人知れずルインは思う。最狂の敵と刃を交わすためには、自分が最上の状態でなければならない。わずかな魔力でさえも、余計な浪費へ散漫させたくないのだから。

 偽りの陰は思惑通りの効果を発揮した。この魔法は使用者自身の視覚レベルを変えるものだ。分かりやすく説明すると、ルインは一時的に精霊界の精霊同等の存在となっている状態である。精霊界上の存在は、人の視界では認識することはできない。だから悪魔にも姿を認識されることはない。彼らが悟ることができるのは、大気を彷徨う“風”だけだ。
 だが、この魔法の効果はあくまで“視覚”のみ適用されるものなので、使用者自身の存在自体を抹消するものではなかった。例えば、ルインが悪魔と少しでも接触した場合、それは悪魔にも認識されることになる。その瞬間は悪魔にも同等の効果を与えることになるため、魔法は一気に解除されてしまうのだ。

 己を偽り続けるのなら誰とも接触してはいけない。
 四面楚歌の孤軍を守り通さねばならない。
 これが、偽りの陰という魔法の特徴。

 孤軍、今のルインはまさにそうだ。魔界に乗り込むただ一人の人間。
 周りにあるのは悪魔と魔物と黒い世界。
 自分以外に仲間となるものはいない。
 助けてくれる者はいない……。

 ルインのそばには妃砂がいた。彼は大切な友人だ。契約関係から成ったものだとしても。
 現状で唯一、彼だけはルインを裏切ることは無い。

 でも、それでもルインは孤独を感じていた。
 その理由は、最初から分かっていた。



 交差点を抜けると再び薄暗い廊下が続いた。幾度も悪魔とすれ違い、時には人気のない死角を見つけて休憩という貴重な安息を過ごす。
 後は螺旋を辿るかのようだった。蜿蜒と続く同じ風景の繰り返し。
 先へ進む。角を曲がる。部屋を探る。階段を上る。悪魔とすれ違う。
 さらに奥へ。分かれた道を選ぶ。進む。また交差点。新しい部屋。悪魔がいる。気配が違う。
 次を探す。階段がある。行ってみよう。廊下が続く。ここはどうだ? 違う。
 先へ進む。行き止まりだ。一度戻ろう。向こうは調べたか? ここにもいない。
 もっと邪悪な、重い空気を探さなければ……。
 先へ行こう。また悪魔と遭遇する。
 違う、違う、違う……。


 “奴”は、いったいどこにいるんだ?


 魔王へ続く道のほかに、ルインには見つけるべき存在があった。
 あの日から今までずっと忘れることの無かった憎き者。
 外跳ねが特徴的な灰色の髪。
 嘲笑を浮かべる赤い眼。
 幼顔が表す残酷な暴動。



『人間ってさぁ……ほーんとにバカだよねぇ。そうは思わない?』



 ── あいつだけは……必ず…。
 四天王の一人である灰色の悪魔 ── ガロ。ルインが最も憎む悪魔の名前だ。
 ガロは、ルインの兄と親友を殺した悪魔だった。魔王を討つより先に、ルインは二人の仇を討つと決めていた。あいつだけは何としても殺さなければならないのだ、絶対に…!!
 だが、目的の四天王はなかなか見つからなかった。気配を辿るにしても大きな魔王城の中で探るのは難しい。特定の悪魔の居場所など見当もつかないのだ。妃砂を偵察に向かわせばいいのだろうが、彼の力さえもここでは消耗させたくない。

 偽りの陰となったルインは縦横無尽に城中を駆け回った。もちろん悪魔との接触は慎重に避けた上で。魔法が持続するうちに奴の居場所を突き止めなければ…。偽りの陰は、高位魔法であるが故に消費魔力も大きかった。長時間使い続けることは賢明ではない。
 同じような風景ばかりの城内は、単純そうでありながらも複雑に入り組んでいた。一応頭の中で地図を描きながら進んでいるのだが、すべてを把握するのは困難だ。時々自分がどこへ向かっているのか分からなくなる。
 だからこそ、苛立ちと焦りが知らずうちに募り始めていた。

 ここはさっき通らなかったか?
 廊下の交差点、次は向こうか?
 気配が弱い…あいつは下級悪魔だ。
 違う、ここじゃない。
 この廊下は…? いない。
 わからない。

 ── …くそっ…どこにいる!?

 魔王城でルインを取り巻くものは同じものばかりだった。
 過る影と映る影。
 灯りに照らされた青い肌。
 背中に広がる黒い蝙蝠翼。
 人間の血のように赤い瞳。
 廊下に響く足音。
 雑音のような話し声。
 濁りのある魔の力。

 何を見ても、どこを見ても、感じるものは怒りと憎しみだけだ。
 なぜ彼らは、恐れや怯え、悲しみを抱くことなく今ここに存在しているのだろうか。
 考えれば考えるほど湧き上がる苛立ちに身体が震えそうになる。
 もしも叶うのならば、彼らに痛みと苦しみを与えてやりたい。
 お前たちに、人間の、私の気持ちが分かるか…?
 大切なものを奪われた、私の気持ちが…分かるのか……?

 不意に過った記憶は、終わりを告げた過去を蘇らせる。

 どうして、故郷は焼き払われたのだろう?
 どうして、家族は亡くなってしまったのだろう?
 どうして、仲間は戦火の中へ散っていったのだろう?
 どうして、どうして…?
 なぜだ? 理由がわからない…。

 それでも、暗がりの中に実る小さな光はあった。
 絶望しか映らない世界で、出逢ったひとつの輝き。
 ずっと変わらないと思っていた。
 そうだ、ずっとあの時間は続くものだと……自分は信じていた。
 信じていた。
 信じていたんだ。

 “ずっとそばにいるよ”、そう言ってくれたから。

 でも……あの日を境に、時の流れは変わってしまった。
 なぜだろう?
 なぜ、彼は…あいつは……悪魔に殺されたのだろう?
 なぜだ、どうして、どうして? どうして…!?



 胸に刻まれた感情は凄まじい音を響かせて、悲愴の牙を剥き出した。



『ルイン…?』
 異変に気付いたのは妃砂だった。ルインの顔を覗けば、あるはずの光が沈むように失われている。まるで虚空を見ているようだ。それと同時に急激に膨れ上がる彼女の魔力。まさか…と思った妃砂は慌てて彼女へ声を投げた。『駄目ですルイン! 今、心を乱しては…!!』と。
 だが、すでに手遅れだと知った。
 それはルインも同じだった。妃砂の声でハッとなり、我へと帰る。膨れ上がった魔力は瞬時に収まった。だが、拳を強く握り過ぎたせいで掌に残った爪痕と胸の中で響く高ぶった感情が今し方、自分は現実から離れていたのだと気付かされた。
 そして、先には感じることのなかった冷たい空気が全身へと過る。冷や汗が流れた。さぁーっと血の気が引くような、嫌な感覚だ。聞こえていたはずの雑音は、時を止めたかのようにピタリと止んでいる。聞こえるのは、感情に揺れた自分の心音だけ。
 一度足を止めたルインはひとつ深呼吸をして、乱れた息を整える。たった数秒で済むことが、今のルインにはやけに長く感じた。

 今は、振り返りたくなかった。
 でも、振り返らなければならなかった。
 これは……自分が犯したことだから。

 ルインが振り返ると、その先には紫の瞳と一寸も違えることなく交錯する紅眼があった。偶然、ではない。
 やがて、時の再生を促すかのように音が流れた。
 濁りの混じる言葉が、ルインの耳へと届く。

「おい、あいつ…?」
「悪魔じゃない。何者だ…?」
「ふん、どうせ侵入者には違いねぇ…始末するだけだろ」
「それもそうだな」

 悪魔は顔を見合わせて、ニヤリと笑った。

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