First Chronicle 魔導士ルイン

21. 戦闘開始

 ── 魔王城1階 ──

 倉庫前連絡通路は閑散とした静けさだった。
 唯一聞こえる音といえば、暗い通路を仄かに照らしている炎の揺らぎだろうか。硬い岩から成る壁には松明が一定間隔で焚かれていて、冷やりとした空間を僅かながらに温めている。
 ふわぁ…、と大きな欠伸をしたのは、この倉庫前連絡通路の入口を監視する歩哨兵だ。黒を基調とする軍服に身を包む悪魔の片手には、城から支給されている黒槍刃が握られている。魔王城に勤める兵士は軍服と各士官に見合った武器が与えられていて、「我々は魔王軍の兵士である」という容姿の様だけで一般の悪魔を屈服させる効果があった。事実、この歩哨兵がまだ入隊前の一般人だった頃、権力を掲げた魔王軍兵士による横暴を何度も見かけたことがある。
 しかし、城内配置の一般兵となってはその効果も無意味だった。ここでは魔王を筆頭とする直下四天王、魔界王子とその配下護衛6騎士、さらには各部署を指揮する士官兵といった自分をはるかに上回る悪魔が大勢いる。城下の一般人に代わり、魔王城でひれ伏せられるのはまさに自分自身だった。
 それでいて監視という役職には暇が付き物でもあった。交代制とはいえ、毎日同じ時間に同じ風景を監視するというのは非常に退屈で、気が緩んでしまうのも仕方が無い。人の通りが無ければ尚更だ。
 ここの倉庫前連絡通路を利用するのは主に運搬兵。彼らには倉庫の仕入品を城内の各部署へ配分する役割があるのだが、たいていは顔見知りである。もしも、監視場所が城外の見張り櫓、あるいは城内の重要機密倉庫前や上級士官室ならば、ありとあらゆる者に警報を鳴らしたはずであり、昇級機会を見込んでもっと真面目に働いていたことだろう。
 運搬兵が現れる時間帯はいつも決まっていた。時々前後することはあるけれど、今自分が担当する時間帯に現れる予定はない。あと数時間が経てば交代の時間だ。
 ── 今日もいつもと変わり無いな。
 慣れ親しんだ“日常”という気の緩み。
 それが間もなく彼を亡きものにしようとは……知るはずもない。



 誰もいない通路内。薄暗い景色。
 時間は音を成さずに刻々と進む。

 歩哨兵の背筋に何やらぞわり、と悪寒が走った。
 その直後、彼にわかったのは突然鋭い風の音が聞こえたということだけだ。

 ひゅうううぅぅ…

 ── ……?

 振り向こうとした矢先に視界が大きくぶれる。気付いた時には通路内が円を描くようにぐるぐると回り始めていた。
 ── 何が、起こった…?
 辺りを伺おうとするのだが、おかしなことに首の自由が効かない。とにかく事態を判別しようとして目の前の視界を解析した。赤い瞳は回る通路の中央に何かを捉えている。人影のようなものがひとつ…その中に紫色の光、か…? それが徐々に大きくなり、細い棒状のものが大きく揺れていた。

 ド、ガッ…!!

 再び視界がぶれた時、赤い瞳が捉えたのは傾斜のある固定された風景だ。見慣れた通路の地面と、先には無かったはずの青い液体……そして、見慣れないブーツを履いた足元。
 視界の片隅にはよく知っているモノがあった。青い液体に浸る黒い塊。握られたままの黒槍刃。あれは魔王城兵士の…。
 見間違うはずがない。自分のそばに誰かいただろうか?
 そこで歩哨兵は、最初に通路が回っていた理由を理解した。

 ── …まさか、オレは…!?

 すぐさま言葉に出来ない恐怖が兵士の脳裏に刻まれる。
 さきほど回っていたのは、通路では無い。
 回っていたのは、自分の視界だ。

 つまりは…

 風の衝撃で跳ね飛ばされた……自分の首、だったのだ。
 そして今、自分は……。


「……!!」


 歩哨兵は、目の前にいただろう人影の正体を知ることはなかった。





「っ、失敗した…」
 ルインは悪態を付いた。彼女の足元には、たった今事切れた悪魔の死骸がある。首を無くした胴体から悪魔独特の青い鮮血が流れていた。その傍らには、潰された頭がただの肉塊と化している。
『私には…何ひとつ失敗したようには見えませんけど?』
 妃砂は平然とした様子で死骸を眺めていた。その裏では周囲に敵がいないことを常に警戒している。今のところ、ルインへの脅威は無い。
「これでは駄目だ、意味がない。他のやり方じゃないと…」
『ああ…なるほど、早く頭を殺せってことですね。他の悪魔へ伝達される恐れがあるから』
「…こいつは私のことを知らせただろうか」
 杖に付いた返り血を振り落としながら、ルインは神妙な面持ちで悪魔の死骸を見やる。一瞬とはいえ、奇襲中に彼と目が合ったことを彼女は悟っていたのだ。悪魔はまだ生きている…! と。だからこそ即座に鈍器に見立てた杖の柄を頭目掛けて振りおろしたのだが、その間に悪魔が何を思い、何らかの伝達行動を行ったか否かは分からない。悪魔が精霊と同じような思念伝達能力を持つことをルインは知っていた。
『彼は下級悪魔でしょう。私が思うに、油断していた彼は今の出来事の答えを見つける余裕は無かった。奇襲とは分かっていないはずです。………まぁ、絶対とは言い切れませんが』
「………ここで足を止めても時間が過ぎるだけ、か」
 しばらく思案していたルインは、死骸傍の地面に杖の柄を置いて文字を描いた。刻んだのは短時間で発動する魔法陣。完成と共に発光した陣は、瞬時に青い炎を挙げて死骸を呑み込む。凝縮された高熱はあらゆるものを焼き尽くす。
 後に残ったのは、黒い灰だけだった。
「………」
 焼跡を一瞥し、ルインは薄暗い通路を歩き始めた。

 城内の通路は洞窟のように続いていた。内部は少々ひんやりとしていて、静かだ。一時の静寂は小さな息遣いさえも躊躇われる。いつどこで、誰が聞き耳を立てているかわからない。この緊張感を緩めてはいけないと考えながら、一歩、また一歩と、ルインは壁伝いを辿る。
 妃砂の偵察によれば、この先は二手に道が分かれた城内通路になっているという。内部の警備は薄い状態で、敵…悪魔のいる気配は無い。
『もうすぐ通路の交差点です』
 妃砂の声を聞いたルインは何も言わずに息を殺した。『先には誰もいませんよ』と自分の守護精霊が言っているにも関わらず、足を忍ばせたのは無意識のことだ。ゆっくり、慎重に、音を立てるな……そおっと、そおっとだ。
 やがて突き当たった通路に到着すると、気付いたことがあった。殺風景だった倉庫前通路と比べると、明らかに内装が変わっているのだ。鉄板を組み合わせただけの簡素な土台の松明は、職人が施したような彫刻へと差し替えられ、冷たい岩そのものを剥き出したままだった通路壁も綺麗に装飾施工されている。まさに、ここからが魔王城なのだろう。

 辺りに誰もいないことを確認したルインは倉庫通路側の壁に背を付き、一度深呼吸をした。敵地とはいえ、何者にも邪魔されない静寂はいつの時も自分を落ち着かせてくれる。
 しかし、脳内に過ぎるのは、魔王城に潜む未知なる戦いのことだ。
 この先の戦いは今まで以上に厳しくなる。何よりも失敗は許されない……自分の命が途絶えたならば、全てはそこで終わる。

 ── その時は、もしかしたら…あいつに……。
 居ない人のことを想うと胸が軋んだ。それは叶うことのない束の間の、夢。

 ルインはすぅっと瞳を細めると、右手の杖を地面と垂直に立てて、囁くような声で詠唱を始めた。綴られる言葉の羅列は人語ではない。魔法を効率よく使役するために使われる難解な古代精霊言語だった。発音がとても複雑なので、正しい綴りを口にすることは熟練の魔導士でも難しいと言われている言語である。
 魔界で戦い抜くために、ルインは世界に存在するあらゆる魔法知識、それらに伴う言語や文法を修得していた。時間と努力をひたむきに費やしてきた彼女が綴る言葉は、完璧だった。
 ミス一つない古来の詠唱は、精霊である妃砂にとってはとても心地の良い響きだった。内に秘められた力強さの中にある、ほんのり漂う懐かしい音色。自ずと士気は高まってゆく。
 詠唱を終えると同時にルインは左手で印を切った。すると、足元に魔法陣が一瞬だけ浮き上がり、光の陰影を残して消えた。傍目には何が起こったのか分からない。
 だが、これでルインの準備は整った。あとは先を目指して……進むだけだ。
「…行こう」
『はい』
 魔界に降り立つ魔導士と守護精霊は、敵の巣窟へ乗り込んだ。

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