First Chronicle 魔導士ルイン

2. 異世界の地でⅠ

 魔界オルセイア。
 そこは、暗雲の闇で覆われた世界だった。



「マスター、起きてください」
 黒い色の木々が密集する森。その一画の岩場で声が響いていた。感じからして、若い男の声だった。
「マスター、マスターレディ……レディ!」
 誰かを起こそうとしているその声は徐々に大きくなる。だが、彼の呼ぶ「マスターレディ」は一向に起きる気配がない。
 やれやれというように肩をすくめながらも、男は再び相手に呼びかけた。

 彼のマスターは非常に寝起きが悪かった。今に始まったことではないが……これがなかなか厄介なものだった。身体を揺さぶるなり叩くなりして起こすのが相手に対して妥当な方法といえるだろう。
 しかし、それは出来なかった。
 彼がマスターの身体に触れるには、「霊体」である自分を「実体化」させる必要がある。霊体では生身の人間はもちろん、形ある物体にも触れることが出来ないからだ。実体化は彼にとってごく簡単に出来ることなのだが、不都合にもその行為は現在マスターによって禁止されていた。マスターとの約束を易々と破るわけにはいかない。それに彼女は約束を破られるのをひどく嫌っている。彼としてもその思想を無視することはできなかった。
 そうなると彼がマスターを起こす方法は、ただひたすら呼び続けるほかない。
「マスターレディ、レディ、マスター……ルイン、ルイン起きてください!」
「…うぅ……」
 マスターの名前を口にするとようやく兆しが見えた。この“起こす”という立場になるまで気付かなかったことだが、どうやら忠義を示す敬称よりも名前で呼ぶ方が効果的らしい。
 呻きながら、うるさそうに身体をそらすマスター ── ルイン。
 まだ起きたくないという様子がありありと見てとれたが、そういうわけにもいかなかった。
 今、自分達がいる場所は魔界。ここで悠長に過ごしている時間ではない。

「また寝過ぎてしまった……いつもすまないな」
 ようやく目覚めたルインは開口一番に頭を下げた。はたからみると不思議な光景だろうと彼は思う。マスターが自分に気遣う必要はどこにもないからだ。でも、そんなマスターだからこそ彼は慕っていた。彼女を責めるつもりは元よりない。
「謝る必要はありません。ただ……ここが魔界だということを忘れないでくださいよ? どこに敵が潜んでいるのかわかりませんから」
「ああ……わかっている。そろそろ目指すとしよう」
 一度大きく伸びをしたルインは、数日使っていた即席キャンプを片付け始めた。
 実を言うと魔界に転移して約3日間、ルインは最初に辿り着いた場所 ── 黒い森からまったく移動していなかった。もちろん無意味に常駐しているわけではなく、そうする理由があった。
「体調はもうよろしいのですか?」
 彼が尋ねると、ルインは作業の手を休めないまま応える。
「来た時よりは幾分良くなった。本当は完全に回復するまで休むべきなのだろう。……だが、これ以上ここにいても結果は変わらない気がする」
 魔界に来た当初、その空気の違いにルインは対応できず体調を崩していた。魔界の空気に毒がある、というわけではないのだが。人々の間でそんな噂も多々あったけれど、人間でもとりあえず呼吸は普通に出来るようだ。
 しかし、世界ヴァーツィアの澄んだ空気とは違って、喉が詰まるような重苦しい感じがあった。まるで、人間の存在を拒むかのような……ある意味毒といってもいいのかもしれない。
 そのため、ルインは来てすぐに気分が悪くなってしまった。魔界の空気に慣れるという意味もあり、彼女は今まで休憩を繰り返す日々を過ごしていた。

 世界に広まっている魔界の情報というのは、人間が勝手に生み出した想像上でしかない。
 魔界に行った人間はルインが初めてではなかった。以前にも打倒魔王を為すべく、正義感溢れる剣士だったり、腕に覚えのあるハンターや術士といった様々な猛者たちが自ら魔界に乗り込んでいたという。
 だが、いずれも生きて帰ってきた者はいなかった。
 その事実は必然的に悪い方へと傾く。彼らは皆、力及ばず死んでしまったのだと。
 魔界の毒々しい空気の所為だとか、誰も魔王に太刀打ちできなかったなど、良くない噂は膨らむばかりだった。
 もちろん確証はどこにもない。実際に知る術はなかったのだから。
 けれど、そう考える以外に人々が納得できる方法はなかった。

「妃砂、全部わかっているな?」
 出発する準備を整えたルインは、ずっと傍にいた男に声を掛けた。
「ええ。呼び出しが掛かるまで出てくるな……そう言いたいのでしょう?」
 妃砂(ひすな)と呼ばれた男は、やんわりと笑みを浮かべた。
 彼は、ルインを主とする精霊だった。精霊界でも特殊な位置づけにある高位精霊で、雷と光の属性を司る。今はルインと契約を交わし、普段は彼女の魔導杖に宿っていた。
「あまり無駄な力を消費したくない。出来る限り、“奴”と“魔王”だけに力を注ぎたいんだ」
「わかっています。ですがレディ……」
 頷いたものの、少し思うことがあって妃砂は言葉を濁らせた。その意を察したルインは付け加えるように続けた。
「ああ、当然例外はある。私自身が何らかの理由で正気を失った時……お前から見て危険な状態になった、そう判断した場合は任せる」
「承知しました。ではしばらく私は戻りましょう」
 優雅な仕草で一礼した妃砂は淡い光となってルインの魔導杖にその身を宿した。すると間もなく杖を通じて妃砂の声が聞こえた。
『あ、レディ? 言葉を交わすのはいいんですよね』
「構わないが、無駄に声を掛けるな。いざという時までは休んでいろ」
『別に話すくらいでは何の力も消費しませんよ?』
「そんなことは知っている。だが、私は疲れるんだ」
 ルインは少し怒ったように言葉を返した。
『……ああ、なるほど』
 妃砂はすぐに納得する。そういえば、ルインは人と会話をするのが苦手だった。どちらかといえば一人の時間を過ごしたい、そういうタイプの人間なのだ。
『異変を感じたら問答無用で口出ししますからね。それでは』
 そう言い残すと妃砂は、ぷっつり回線が切れたように何も言わなくなった。



 魔界を歩き始めたルインはすべてが手探り状態だった。足取りは自然と慎重になる。今わかっているのは、自分が魔界のどこかに存在する森にいるということだけだった。
 世界と比べると、やはり雰囲気は異なる。ある程度予想していたことだ。けれど、思っていた通りかといえば、そうではなかった。
 世界では、魔界は荒れ果てた大地が軋む荒廃した世界とある。空気は闇で澱み、光のない世界に植物は存在しない。切り立った岩場が延々と広がっていて、暗黒に蠢く魔物や悪魔が血肉を争っている……。
 実際はまだわからないことだらけだ。でも魔界に植物がないというのは間違いだった。ルインが最初に見たのは森。その内部は魔界に相応しく、草木はどれも黒混色ときている。しかも、魔界独特の環境のせいなのか、ときおりルインに襲いかかろうとする人食い植物も存在する。最初はすべて炎魔法で焼き払っていたルインは、何度も遭遇するうちに彼らは光を認識しただけですぐに枯れることを理解した。
 魔界の植物は、闇属性。
 ならば当然、弱点は光属性。
 この考えは正しいものだ。しかし、逆位置もあるということを忘れてはいけない。
 そんな魔法の基礎を思い出しながら、ルインは黒い森を抜けた。

「ここが、魔界なのか……」
 思わず息を飲む。今まで歩いていた森は、かなりの高台に存在していたらしい。
 ルインの瞳に映ったのは、一面に広がる魔界という世界だった。
 一言で表すならば、闇。
 それだけで……十分だ。

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