Endear

First Chronicle　魔導士ルイン

17. 蠢く影

　魔導士にとって魔力消耗は命を削っているようなものだった。魔力が無ければ魔法を使うことはできない。そして、魔導士は魔法を使うたびに体力も消耗される。

『ルイン、少し休んでください。魔物の気配は無いから大丈夫です』
　襲いかかる強靭な牙をルインはどうにか打ち砕いていた。疲労に支配された身体はなかなか言うことを聞かない。息は切れ切れになり、杖の支えがなければ立っていられない状態だ。
　── …魔力も体力も、消耗が酷いな……。
　今の状態で他の魔物に狙われてしまったら、命の危機へ瀕すことだろう。だが、ルインの戦った相手が魔界の中でも恐れられている魔物 ── ライガルヴァーだったことが幸いした。ライガルヴァーを強者として認めているのは人だけではない、魔物の間でも同じなのだ。獰猛な性格を持つ彼らの縄張りに好き好んで侵入しようとする魔物はほとんどいなかった。何かが近づいてくるとすれば死の臭いを嗅ぎつけた小さな虫たちくらいのものだ。けれど、その小さな虫でさえも毒を持っていることがあるから注意が必要である。
　冷たい空気に漂う血の臭い。死骸に蠢く虫の音。気分が悪くなってきたルインは重い足を引きずりながら地面にひれ伏すライガルヴァーとの距離を置く。しかし、自分も返り血を浴びていたために虫が数匹纏わりついてきた。疲れが酷くて払う気力も無い。そんな彼女に代わり、一度実体化した妃砂はルインの腰にあるポシェットから香水らしき小瓶を取り出して中身を振り撒いた。すると、瞬く間に虫たちが離れていく。虫除けだ。守護精霊の行動さえも眼に入らないルインはお礼を言うことも無く、魔物化していない木に寄り掛かる。まだ上手く息が出来ないが、ようやく一息付けそうだ。
　黒い森の中の一画、ルインは崩れ落ちるように身体を木に預ける。もう二度とあいつとは戦いたくない。そんなことを思いながら。

　妃砂の擁護を得ながら、ルインは何度も深呼吸を繰り返した。やがて落ち着きを取り戻すと、何かを思い出して腰にあるポシェットの中を漁っていた。探していた物を見つけると躊躇うことなく口に入れる。その途端、ルインの表情が酷く歪んだ。
「…っ！？」
『ルイン…大丈夫ですか？』
　妃砂が心配そうに顔を覗き込んでくる。ルインは「大丈夫だ」と返しながらもかなり咳込んだ。口の中に広がる味覚はこの世のものとは思えないほど酷いありさまだったのだ。苦い、ものすごく苦い。ルインはイライラしたように悪態を付いた。
「くそっ…メルの奴、これのどこが私好みの味なんだ…？」
　ルインが食べたのはクリエーターの友人から貰った錠剤型の魔力回復補強薬だった。その友人 ── メルトリアによると薬の中には魔力を増幅させる成分が凝縮配合されていて、これを飲めばある程度の魔力はすぐに回復できるという特殊合成薬らしい。しかし、初めて口にした特効薬からあふれ出た苦味は、美味しいと言えるものではない。これを渡された時、友人メルトリアは笑顔でこう言っていたはずなのだ。
『この薬はルイルイ好みの味に調整した特別製だから楽しみにしていてね♪』
　そもそも自分好みの味とは何だ？　という話なのだが。そして実際、薬の味覚効果はまるで逆だった。口腔がビリビリとしびれ始めていて毒薬でも飲んだような痛みが響いている。けれど不思議なことにルインは自分の魔力が徐々に回復し始めていることを実感していた。枯れ果てていた力は嘘のように全身を駆け巡る。味覚は最悪でも効果は最大限発揮されていることを知り、ルインはますます機嫌が悪くなった。つまり、魔力回復補強薬の異常なまでの苦味は意図的なものなのだ。おそらく友人が仕組んだ「ささやかな悪戯」に違いない……そう思うと少しムカっときてしまった。けれど、後から考えてみればこれも自分に対する友人からの小さな応援なのだということにルインは気付く。
　無事に帰還できれば感謝を伝えるのはもちろん、こちらからも「ささやかな見返り」を考えておこう。そんなことを頭の隅に刻んでおいた。

　薬の苦味はしばらく続いていた。ちょっとやそっとじゃ抜けそうにない。だが、今となっては我慢するしかなかった。そんな状態から現実逃避するかのようにルインは天を眺めていた。
　木々の間を抜けた先に広がる空はずっと雲で覆われている。時々転々とした影が過ぎるのは魔物が群れを為して飛んでいるからなのだろう。あるいは…。
「妃砂、悪魔は気付いていると思うか？」
　ルインの問いかけに妃砂は少し思考を逡巡させた。柔らかなクリームイエローの髪がふわりと揺れる。けれどその中に浮かぶ表情は厳しく、でもだからこそ精霊ならではの美しさが引き立っていた。
『可能性はあるでしょう。懸念するのは魔界に住む精霊たちの情報網です』
「悪魔に付く精霊がいるかもしれないって話だな」
『ええ。ドリーは違いましたが、他の精霊の中には私と同じようにアグアノス化した宿霊がいると思います』
　アグアノス化した宿霊、つまりは人に付く精霊を示す。悪魔の中にルインのような守護者を持つ者がいる、その可能性は決して否めないことだった。
　ルインはしばし口を閉ざし、辺りを流れる冷たい空気に身を任せる。森のざわめき、魔物の咆哮、身体を霞む風の音……静かな闇の世界で小さな魔導士の頭脳だけは闘志を交錯させていた。強い意志が宿る瞳は、すうっと細められる。
「私の存在が悪魔側に伝わっている場合の想定はしてある……慎重に進まないといけない」
『もちろんです。けどルイン…』
「何だ」
　含みのある言葉にルインはそばにいた妃砂を見上げる。自分と同じ深みのある紫色の瞳が重なると、妃砂は真剣な眼差しで先を紡いだ。
『どうか無理はしないでください。貴方と、貴方の帰りを待っている人たちのために』
「…ああ」


　　　　＊


　魔界のどこか、黒い森の中で小さな闇精霊たちが集まっていた。闇精霊といっても姿形は様々で、妖精や人型のほかに獣の姿を纏う精霊、視覚では捉えることが難しい不定形など個性が現れている。彼らは各自会話をしたり遊びまわることで日常を楽しんでいた。そのほとんどが下級精霊であるのだが、広い魔界の中で彼らが一つの場所で大きな集団を築くことは珍しい。大小様々な声色ではしゃいでいるこの集団は、傍から見ると酷く騒がしい存在だった。
　しかし、彼らが煩いと思うのは周りに漂う同じ精霊たちだけだ。世界でも魔界でも、星の恩恵として存在する精霊たちは基本的に人間や悪魔、あるいは魔物や植物たちが生きる場所と同じでありながら別空間にその実態がある。精霊たちは瞬時に視覚レベルを変えることが出来た。普段の彼らは、彼ら同士でしか捉えることが出来ない視覚レベルにある。この状態がすべての精霊たちの住処 ── 精霊界を意味した。精霊界では彼らの姿はもちろんのこと、気配や声を他の生物に悟られることはないのだ。
　そんなざわめく集団の中央で、小さな身体で得意げに声を張っている闇精霊がいた。大きな帽子からエメラルド色の髪が流れ、黒褐色の肌から覗く瞳は橙色、左手には仄かな明かりが灯されたカンテラが下げられている。
　いつしかルインと束の間を共にした闇精霊 ── ドリーだった。

　アグアノス化していないことを理由に妃砂はドリーを軽視したが、不運にもその判断はドリー個人の性格により思わぬ散漫を働くことになる。

「ねぇねぇドリー、ほんとにニンゲンにあったのー？」
「ふふふっ、そうよ！　世界から来た人間の魔導士に逢ったんだから♪」
「それってホントのはなしなのー？」
「ホントに決まってんじゃん！　なんたって一緒に同行したんだからね！！」
「はん、嘘くせぇな…！！」
「な、なんでだよー！？」
「第一、人間がたった一人で魔界に来るなんて考えられねー」
「いわれてみると…そうだよねー」
「なぁ…！？　嘘じゃないもん！　アタシは一緒に冒険したんだからね！　それに向こうにいるはずの光の精霊も一緒だったんだよ！？」
「ひかりのせいれいが？」
「それこそ信じられねーぜ！　光精霊が好んで魔界に来るかっつーの。そいつが来たっていう証拠はどこにあるんだよ？　ああー？」
「そんなの、アタシが逢ったって言ってることが証拠っ。アタシは精霊なんだよ？　嘘を言うはずないじゃんかぁー！」

　ドリーの言うことは正しかった。基本的に精霊は神の恩恵、神に従う者として嘘を付けない本質にある。しかし、嘘の是非に関わらず精霊各々の信頼度については別の話だ。彼らの中にも交友の善し悪しがある。好きな相手は信頼するし、嫌いな相手は信頼しない。おそらくドリーは一方の相手に嫌われているのだろう。だから話を信じてもらえない。
　となると、彼女の性格から考えればそのまま大人しく引き下がる性質では無い。ドリーはさらなる厄を呼び寄せる方へ事態を転じさせた。
　それが魔界に来ている魔導士のリスクを高めることになろうとは、誰も知らない。

「ねぇ聞いた？　魔界に人間が来ているらしいよ？」
「へぇー」
「もしかして魔王を倒しに来たのかな？」
「人間が魔王を？　無理じゃないの？」
「でも一人で魔界中をうろついているって聞いたよ」
「そうなの？」

　下級精霊は噂話が好物だ。新しい情報があれば誰かに話さずにはいられない。精霊間の情報は驚くほど速かった。ささいな噂は真偽の判断が付かないうちに人知れず遠方へと伝わってしまう。精霊はいつの時も気まぐれで、しかし一度興味を持ち始めるととことん追求したがるという傾向があった。
　扇のように広がる波が留まる事はない。連鎖は次へ次へと繋がってゆく。



　やがて、それはとある場所にも伝わった。



　下級精霊の声を聞いた闇精霊はふわりと浮遊しながら友人の元へ向かった。壁や扉を無いものかのようにするりと通り抜けると、見慣れた一室へ辿り着く。アンティーク調の蝋燭が灯されている部屋の中は仄かな光で包まれていた。闇精霊はあたりを見渡して、部屋の奥……黒いカバーが掛けられたベッドに友人がいるのを見つけた。
　何やら一人で考え込んでいるその友人は……悪魔だった。逆立った灰紫色の髪は男っぽい風貌で、羽織のような上着は悪魔の腕をすっぽり覆ってしまうほど袖が広くゆったりしている。パッと見ただけでは性別の判断が付かない。しかし、一度顔を覗きこめば女性らしい長い睫毛とキレのある真紅の瞳、ふっくらとつやのある唇が印象に残るはずだ。
『ねぇ、パル…？』
　近くに行ってもこちらに気付かないようなので、闇精霊は様子を伺うように声を掛けた。聞き覚える声にハッとなった悪魔 ―― パルーバはようやく顔を上げた。
「…ああ、ゴメン。考え事をしていて気付かなかったよ」
『ふぅん…何を考えていたの？』
「ん……昔のことを、いろいろ…ね……」
　昔のこと、そう言われて思い当たることは一つだけだった。不意に思い出された無邪気に笑う少女の姿。しかし、今はもう……。
　闇精霊が何を言おうか迷っていると、パルーバは様子を察して話を切り替えた。
「それよりも何？　私に用があるんじゃないの？」
　彼女の様子が心配だったが、闇精霊は彼女の古傷に触れぬように言葉を紡ぐことにした。
『あ、うん。あのね、さっき聞いたことなんだけど……魔界に人間が来ているみたいなんだ』
「…人、間？」
『どこかの闇精霊が人間に逢ったんだって。最近のことらしいよ』
「そう……人間、か」
　過去への思考を隅へ除けたパルーバは、久しぶりに聞いたキーワードに瞳を細める。最近の両世界は水平線を辿る一方で新たな戦いの兆しは何も無い。今更ながら思うのだが、二つの世界の争いに意味はあるのだろうか……そんなことを思った。別に魔王様の行いに意義を唱えるつもりはない。魔界の統率者が決めたことなのだから配下に付く自分はただ従うだけだ。
　しかし、それでもやはり、拭いきれないものがあるのは確かだった。両世界の戦いが無ければもしかしたら……。
　パルーバは即座に首を振った。違う、今考えるべきことは“現在”だ。過去では無い。
『ねぇパル、その人間は魔王を倒しにきたと思う…？』
　人間が魔界に来る理由は一つしかなかった。その真意を探るように闇精霊は己の疑問を口にする。
「わからない……でも、伝えておかないと」
　パルーバは袖の長い服を一度着なおして支度を整える。闇精霊に付いてくるように促すと部屋を出て行った。
　杞憂なのかもしれないが、嫌な胸騒ぎがする。