First Chronicle 魔導士ルイン

16. 黒い森

 巨大な影は刻々と視界の中へ近づいていた。
 闇の中にのっそりとそびえ立つそれは、天にも達しそうなほど高く大きい岩脈。
 闇に従いし者が集う場所 ── 魔王城。
 魔物との戦闘が激化する中、ルインは慎重に、けれど確実に、敵地を目指す。



 闇に沈む黒い森は相変わらず魔手を伸ばす植物と魔物で溢れていた。いちいち戦っては力を温存することなどできないので、ルインは魔導杖に光の魔力を灯す。敵の苦手とする属性を付加することで彼らが本能的に距離を置くように仕向けたのだ。この手の魔法はとくに植物系の魔物に大きな効果を発揮した。身体に闇を持つ彼らは、自分が光に触れると大抵は枯れてしまうことを知っている。一度は襲いかかろうとする草木の魔手は、身に迫る異常を察して次々と退き下がった。
 しかし、獣系魔物についてはそうもいかなかった。彼らは縄張り意識が強く、己の支配領域から侵入者を排除するため執拗に追いかけてくるのだ。彼らの縄張りを回避することができれば一番良いのだが、自然の造形からそれを見分ける術は無い。こればかりは仕方ないのでルインは時折襲ってくる魔物と真っ向から戦うしかなかった。

 戦闘を切り抜けて先へと進む。やがて、森の中のとある位置に辿り着いた時、ルインの足は反射的に止まった。
「………」
 紫の瞳は森の奥を見つめる。先を探る視線は鋭くなる。広がるのは暗い闇ばかりだ。人間の視力ではその暗がりを明確に知ることはできない。けれど、小柄な魔導士は全身に纏わりつく嫌な悪寒を感じていた。
「ここから先は……空気が違うな」
『闇の気配……魔王城の領域になるのかもしれませんね』
 ルインの呟きに応えた妃砂の声色は幾分低かった。今の彼は守護者、主君を護ることへ全精神を集中させている。
「悪魔の気配はあるか?」
『今はありません。でも、油断は禁物ですよ』
「そうだな…少し先へ進んで様子を見よう」
『はい』

 ルインは森を進んだ。闇に潜む殺気に注意しながらゆっくり、静かに一歩一歩を踏み出す。奥で茂みが揺れる物音が聞こえると、無言のまま空気中に陣を描いてタイミングを見計らった。魔物であれば瞬殺する構えなのだ。早期決着が自分を勝利へ導くひとつの方法だった。

 風が吹く。木々が揺れる。茂みの音は風に遊ばれたものかもしれない。でも、違うかもしれない…。気配はあるか…? 遠くで魔物の遠吠えが聞こえた。空気が冷たい。大気に混ざるものは何だ? ただの寒さか、あるいは魔物の殺気か…………ルインよ、油断はするなよ?
 そう、自分自身に言い聞かせた時だ。瞬間的に背筋がゾッと震えた。この感覚は……ルインが答えを出す前に、妃砂は急いた声を挙げていた。
『ルイン…来ますっ!』
 気のせいではなかったか。ルインはすぐさま陣を解放して言葉を口ずさんだ。黒い森に潜む魔物はどこからともなく忍び寄ってきている。群れに囲まれたら非常にまずい。
「…切り裂け、閃鋭の双刃 ―― ウインドシザー!」
 詠唱を合図に、風の刃は襲い来る魔物に裂傷を与えた。彼らの手足は瞬時に裂かれ、傷口から鮮血が溢れ出る。しかし、魔法を逃れた一部の魔物は勢いよく飛びあがり上空から鋭い爪牙を翳した。
 大きな影が覆う気配。ルインは咄嗟に茂みの中へと転がった。直後に響いた「ドシンッ」という音は、相手の魔物がいかに巨大なものであるのかを物語っていた。
『我が雷撃よ、響け!』
 ルインが態勢を立て直す間に妃砂は雷魔法を発動させていた。閃いた雷は魔物の身体に激しい電撃を与える。強力な電圧は筋肉麻痺を引き起こし、徐々に彼らの自由を奪い始めた。その隙にルインは新たな陣を並べ、制裁の剣で幾多の魔物を葬った。
 だが、休む暇はない。
 ルインが駆け出すと同時に何かが目の前を掠った。ひゅんっとしなやかな音を立てる細い何か……暗くてよく見えない。が、なんとか気配を察知して襲いかかるものを避ける。
「くそ……魔手かっ」
 魔導杖に灯していた光はとうに消えていた。魔法発動に集中していたために効果が薄れてしまったのだ。牙を持つ植物は生き物の熱源や匂いを嗅ぎ分けて襲いかかってくる。だが、ここで足止めされるわけにはいかない。戻れば魔物の群れに囲まれるだけだ。
 ルインは追手を撒くため自分も闇の中へ溶け込んだ。

 闇に沈む森の中はまさに魔物の宝庫としか言いようが無い。狂気を秘めた木々たちは招かれざる小さな侵入者に気付き、洗礼を与えるべく一斉に矛を剥きだした。あらゆる方向から飛び交う冷たい殺気。刺の蔦、葉の刃、槍のような枝先がルインを付け狙う。周囲360度から狙われては回避することも厳しい。
 正直、ルインは恐怖を感じずにはいられなかった。もしかすると自分はここで死んでしまうのではないか…? 一瞬のひるみが動くことを躊躇い、「逃げろっ!」という頭の中の警鐘が虚しく鳴り響く。
 ── もしも今、あいつがそばにいてくれたら…。
 昔年の思い出に触れたルインの思考は現実を僅かに離れ始める。思い浮かんだ蒼い影。それはいつも自分の前を先行していて…。
 眩い閃光に包み込まれたのは、その直後のことだ。ルインがハッとなって目の前を据えると、咬龍と化した青白い雷が襲い来る敵へ反撃の猛牙を向けていた。空気を裂いた閃雷は凄まじい音を立てて、迫りくる魔手を次々と喰らっていく。
 これは、妃砂の魔法だ。自分の守護者である精霊は今、戦っている…!
『ルイン、無事ですか!?』
 己の雷を巧みに操りながら妃砂は焦りの声色を零していた。彼はルインの弱さを知っている。彼女の精神は不安定なまま、きっかけさえあればすぐに崩れてしまうのだ。だからこそ護らねばならない。全力で!!
「ああ、悪い妃砂……私は」
『言い訳なら後でしてください。今はここを切り抜けることが先決です!』
 妃砂の雷龍はルインを護るように旋回し、バチバチと火花を散らした。守護精霊の力強い擁護を改めて実感したルインは、一瞬でも“彼”へ縋ろうとした自分を厳しく叱咤した。今は過去に想いを馳せている場合ではない。戦え、ルイン!!

『私は背後と側面の敵を対処しますのでルイン、貴方は先へ進むことへ集中してください』
 妃砂の擁護は死角からの攻撃を弾き、必要があれば反撃さえもしてくれる頼もしい力だ。だからルインは彼の言葉通り、前方への意識を集中させた。
「猛りの炎よ…我が豪炎となり、武器となれ」
 魔導杖の先端には赤い宝石が埋め込まれていた。詠唱が済むと宝石に光が集積し、それは赤い炎を纏って燃える杖となる。
 フレイムロッド ── 魔導杖に付加された炎はそのまま武器として使える。炎が灯る杖の矛先は敵を焼き散らすのだ。
 唸る雷龍。燃え揺る緋色の灼熱。下手に手を出したならあっという間にその手を狩られてしまうことを知った植物性の魔物は、次第に攻撃頻度が薄れていく。
 どうにか木々の魔手を逃れたルインが次に遭遇したのは、群れを為す獣型の魔物だった。すばしっこく木々の上を移動する猿のような魔物は、ルインの隙を見て上空から攻撃を仕掛けてきた。闇に沈む森の中でルインの視界はあまり利かない。不意に襲ってくる魔物の爪はルインの身体を僅かに裂いて鮮血を飛ばした。
『ルイン…! ここは敵の数が多すぎます…!!』
「わかっている!!」
 妃砂も全ての敵を相手に出来るわけでない。魔物を一掃させる力が無いということではなく、今はその力を使えないという意味で、だ。大きな魔法を派手に使っては近くに潜んでいるだろう最悪の敵 ── 悪魔に感付かれる可能性がある。魔王城へのリスクを減らすには気配を消して、静かに突入しなければならない。
 受身でいるばかりではいられないルインは木の上を籠城とする魔物の軌道を読み始めた。小さくて疎らな気配が右側面を過ぎる。と思いきや上部で反対面に移動する。急に魔物の気配が大きくなった。…仲間を呼んでいるのか。左右に散って、目標を狙う最高の位置を探している……ならば次に移動する場所は…。
 ルインは詠唱と共に杖を空に薙ぐ。ごうっと唸った風は移動する魔物のバランスを狂わせ、次々と地面へ引きずり込んだ。タイミングを計ったルインは正確に狙いを付けて、落下した魔物に鎌鼬の衝波を与えた。風が空気を切る音と魔物の叫喚が混ざり合い、束の間の不協和音が生み出される。
 ルインは休憩する間もなく森の中を駆けた。さっきの攻撃で耳鳴りが酷い。そんなことを考えながら先を目指す。どこに出口があるのかはわからない。けれど、同じ場所に居座って魔物の狙い撃ちにされるわけにはいかなかった。

 その後もルインは魔物と戦い続けた。同じ魔物にも遭遇した。ダークプラント、アロット、レイドウルフ、フラディータ、世界ヴァーツィアでは見かけない魔物は数知れない。
 自分はいずれここで尽きてしまうのではないか。戦い続ける中そんな不安が再びルインを襲ったが、目の前に見覚えのある巨大な獣型の魔物が現れた時、沈みがちな感情は消え失せた。

 ── 私はまだ、ここで死ぬわけにはいかないんだ…!

 その魔物は今まで出会った中で最も凶暴な類だった。もちろん名前など知らない。獅子のような容姿に鋭い爪と牙。ルインの何倍もの身体から生まれる力は計り知れないだろう。一度戦った経験があるために、二度と戦いたくない魔物だとルインは認識していた。だが、その姿が先行く道を威風堂々といった様子で阻んでいる。
 舌打ちをしたルインはどこかに抜け道が無いかと辺りを伺った。巨大な魔物は一撃で仕留めようにも急所を突くのが難しいので、長期戦を覚悟しなければならない相手だ。戦うとなると自分の大半の魔力を費やすことになる。出来るだけ魔力は温存しておきたい、その理念が打ち壊されてしまう…。
 しかし、魔物の殺気はすでにルインに向けられていた。闇の中で怪しく光る瞳が執拗に目標を定めている。逃げる隙は無さそうだった。
 ── 無駄な戦いをしている場合ではないのに。
 焦燥は自身を追い詰めるだけだとわかっていた。杖を構えたルインの決断は早く、すでに魔法の詠唱は完了する。
 ここまで来たら、戦う他に道は無いのだ。

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