First Chronicle 魔導士ルイン

15. 異世界の夜

 ひょうひょうと唸る風が辺りを揺るがせる。その流れに遊ばれた黒い木枯らしは空へ舞い上がり、遠い暗闇の中へと沈んでいく。

 黒い森の中で、マントに身を包んだルインは仰向けになって空を見上げていた。



 時刻は朝なのだろうか、夜なのだろうか。魔界の時間環境が未だによくわからない。だが、辺りが静まっていることを考えると夜だという気がしていた。
 木々の隙間から見える夜空に星の煌めきは存在しない。どんよりと、いつもと変わらない闇だけが広がっている。何の面白味もない風景だったが、見慣れてしまうと案外ホッとするものがあった。
 ── いよいよ、か……。
 ルインの頭の中では先のこと…魔王城のことが何度も繰り返されていた。刻々と近づく決戦の時。魔王城にはいったいどれだけの悪魔がいるのだろうか? 警備体制の規模はどこまで行き届いている? 城内通路の仕組みは? 魔王の鎮座はやはり最上階なのか? 途方もないことばかりを考えてしまって、なかなか眠れない。緊張していることもある。だが本当の要因は、小さな不安が次第に大きくなりつつあることに気付いていたからだった。
 魔界に来てからのルインは、まだ一度も悪魔と戦っていなかった。力を温存するためには都合が良かったが、現地で成果を得られないまま彼らに挑むことは賭けに等しいのでは? そんなことを考えてしまうのだ。もちろん、彼女は過去数多くの悪魔と戦ってきて、いずれも勝ち続けてきた。けれどそれは、“世界”での話である。
 世界ヴァーツィアは神の恩恵に満ちた場所。あらゆるマナフォースが各地に溢れている世界。魔法は大概自分の魔力を使って発動されるが、実行する上でフォースの力が欠かせないものとなっている。本来は魔力だけでも十分効果は現れる。だが、フォースを利用することでより一層の効果を期待することができるのだ。それを考えると、ヴァーツィアにいる魔法使いや魔導士は、魔法の源泉をいつでもどこでも引き出せる状態にあった。絶対ではないけれど、思い通りの効率で魔法を行使できるのだ。
 しかし、魔界では……?
「………」
 唐突に起き上がったルインはマントを羽織直した。手元に置いていた魔導杖を取ろうとして……なぜか途中でやめた。音を立てず静かに立ち上がったルインはもう一度空を見上げる。あるのは先と変わらない暗い空。
 紫の瞳を細め、しばし何かを考えたルインは魔物除けに張った結界を抜けて歩き出した。

 無造作に森の中を散策する。闇に沈んだ道は、明かりが無ければ歩くこともままならない。ルインは指先に集めた魔力を灯火に変えて、意味もなく奥へと進んでいた。
 やがて、途中で足を止めたルインは周りの様子を伺った。結界を抜けた時から付いてくる気配は強くなっている。牙を向けるタイミングを計っているのか。自分の出方を待っているのか。どちらにせよルインは魔物に囲まれていることを実感していた。
 全身に突き刺さる冷たい殺気は、いつだったか自分が隊に所属していた頃を思い出させる。


  + + +


 刃と化した風が敵を切り裂く。
 敵の真っ只中を走り抜けていた剣士は、突風のようにかく乱を引き起こし、彼らの陣形を崩していた。絶好の機会を逃すまいと魔導士は予め準備していた魔法を発動させ、黒い雷を炸裂させる。
 散りじりになった敵の判断は早い。翼を広げた彼らは一番厄介な相手から始末しようと、後方に佇む魔導士に狙いを定めた。
 魔導士には逃げる術がなく接近戦をやり合える自身も無かった。だが、本人に逃げるつもりなどなく、真っ向から迫る敵を鋭い眼光で睨んだ。口ずさんだ言葉は難解な羅列であるために、かなりの時間を要するものだった。それでも、魔導士は一歩も動かずに魔法の詠唱を続けた。
 敵が来る。ギラリと瞬いた刃物が自分を掻き切ろうとしている。背筋をなぞる感覚が性急に覚悟を求めてきた。
 ── あと数秒あれば間に合う……!
 頭に浮かんだ些細な望み。それは思いのほか、すぐに叶うことになった。
 魔導士に黒い刃が当てられようとする直前、目の前に蒼い影が現れた。銀閃が空気を切り裂くと、迫っていた敵の身体が分断される。瞬きする間に何度刃が交わされたのだろうか。自分へ接近しようとする敵の数が減っていることを知ると、魔導士の魔法は完成していた。
 杖を空に掲げて敵方へ振り翳すと無数の氷塊が降り注ぎ、さらに、対称的ともいえる炎嵐が彼らを逃がさないとでも言うように取り囲んで閉じ込める。その光景は、まさに氷焔舞獄 ── 氷と焔が舞う獄上 ── という表現が相応しい。絶大な魔法威力の前に、敵が勝る術はすっかり消えていた。

 戦闘を終えて安堵の息が零れる。上級魔法を発動したため疲労が全身へと押し寄せていた。魔導士が大きく息を切らしていると、肩にポンっと手を掛けられた。
 振り向くと蒼い影が ── いつも自分のそばにいる見慣れた剣士が、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「お疲れ、ルイン」


  + + +


 ルインは無意識にほくそ笑む。魔導士は本来単身で行動すべきではない間接戦向きのクラスだ。魔法にすべてを捧げる彼らは、精神を一瞬でも遠くに預けるために現実への反応が遅く、直に戦うことが苦手である。
 昔の自分には“盾”があった。その盾はとても優秀で、指一本たりとも敵を近付けず、自分を守ってくれた。けれど…今は違う。自分を守る盾は自分自身だ。その気になれば人はいくらでも強くなれるのだろう。そんなことを考えながら、ルインは不意に灯火を消した。
 大きくなる唸り声を聞きながら空気に指を走らせる。それは淡い光を伴う軌跡となって紋様に変わる。暗がりに潜む赤い眼差しは異変に気付いてそろりと動き始めた。
 魔物には自分の姿が見えている。彼らは的確にルインの位置を知り、領域を踏み躙られると思って襲いかかって来た。しかし、相手の位置がわかるのはルインも同じだった。
 研ぎ澄まされた感性は糸を張り巡らせている。視力で認識できなくても敵の殺伐とした気配は目に見えるものと同然だ。それに、魔界慣れのお陰で多少は闇の視界を捉えることができた。飛びかかって来る魔物の攻撃をかわすことは容易もない。
 闇の中でひらりとステップを踏み、ルインは囁くように言葉を綴った。先ほど描いた陣から複数の魔法が解放され、魔物は予想だにしない壮絶な力を浴びることになった。

 最初は風。数ある属性の中で、最も扱いやすい風属性はイメージの具現化が簡単だ。描かれるのは見えない刃。実体のない鎌鼬は無慈悲に敵の身体を切り裂く。

 次は水。癒し効果の多い水属性だが、攻撃効果となると容赦無い。突如湧き出た噴水は、嵐が訪れたように水柱を唸らせる。

 続くは地。地盤を崩すのに最も効果的な地属性は、水に揉まれた敵を引きずりこむには都合が良い。地面を辿った亀裂は、水流を濁流へと変貌させる。

 最後は炎。万物の力を意味する炎属性は、その名に恥じることなく猛威を振るう。風に乗って渦となった業火は敵を逃さない。

 ルインは両手を仰いで炎を唸らせた。それから十字に印を切り、飛び退きながら横薙ぎに軌跡を描く。ぐるりと身体を回転させると魔力の帯が周囲に現れ、7種の紋様が浮かび上がった。
 仕上げの陣だ。
 ルインが言葉を紡ぐと七光は剣に姿を変える。それぞれ形状の異なる聖剣は銀色の肌を閃かせ、先の魔法で混乱している魔物を斬り、急所を貫いた。
 白き聖なる刃は、黒き闇の塊を昇華させる。
 やがて仕事を終えた剣が消えると、辺りは閑散としていた。巻き込まれた木々は斬り倒され、一部はねじり取られている。炎で焼け焦げているものもあった。その袂にあるのは、息絶えた魔物の骸。
 彼らはおよそ20体はいたのだろう。魔導士一人が到底相手に出来る数ではない。だが、ルインは一人で片付けた。今の彼女には相手が複数だろうと、接近戦になろうと関係ない。長い時を掛けて培ってきた巧みな戦術、積み重ねてきた力は常識すら覆せるものへと成長していた。

 勝利後の空気に血の匂いが鼻をくすぐる。冷たい風が直に触れて肌寒い。ルインは虚ろな顔で佇んでいた。
 闇に溶け込んだ場所は、自分さえも飲み込もうとしてるのだろうか。そんなことを考えながら口を開いた。
「……馬鹿な事をしていると思うだろう?」
 木陰に隠れていた影は「さすがは我がレディ、気付いていましたか」と声を零しながら現れる。ルインは最初から彼が近くにいることを知っていた。守護精霊をキャンプ場所に置いてきたつもりだったのに、付いて来ていたのだ。
「馬鹿とは言いませんが、感心はしませんね。あまり派手に戦うと悪魔に気付かれますよ?」
 億尾もせずに応えた妃砂はルインのそばへ寄った。実体化しているために、風で遊ばれたクリームイエローの髪がふわりと揺れる。うっすらと笑みを浮かべた青年は言葉を続けた。
「それに、今更不安になったところで何も変わりはしません」
「……そう、だな」
 まったく、本当に勘の鋭い奴だ。察しの良い精霊にルインは少しだけ笑みを零す。けれどそれはすぐに消え、自分が切り開いた空を仰いだ。
「私は強いと思うか?」
 少し間を空けてからルインが尋ねた。紫の瞳は天に向けられたままだった。
「これだけの魔物を一人で葬ったのですからお強いのでしょう………戦闘に限っては」
「……なるほど」
 最後のつけ足しにルインは心の中で笑った。本音を隠さず言ってくれる存在はとても有り難い。しかしその反面、彼に心を見透かされていると思うと自分が嫌になる。それでいて、今考えていることといえば……。
「私の力は魔王に通用するのだろうか……」
 妃砂は何も応えなかった。彼女が応えを求めているわけではないと気付いたからだ。ルインは独り言のように続けた。
「確かに今更なのかもしれない。それでも私は……不安になる。何が不安なのかと聞かれれば、はっきりとはわからない。今のところ私の力は魔界でも通じているようだし、そうなるために努力を積み重ねてきた。これでいい、この調子で先に進めばいい……魔界に来た以上あとは戦うだけだ。……でも ──」
 そこから言葉が続かない。ルインはその先を躊躇った。それを口にしたら何もかも駄目になってしまうような気がして、しかし、抑えようとすればするほど留め具が壊れ始める。
 妃砂は俯いたマスターの横顔をしばらく眺め、やがて言葉を返した。
「私は貴方と、その力を信じています。信じているからこそ契約を結び、今ここにいるのです」
「………」
 ルインは沈黙を守る。何を応えていいのか正直わからなくて、無意識に腰に下げている剣鞘に触れていた。
「迷いは自滅を示唆します。このまま先に進むのか、あるいは後に下がるのか……決めるのはルイン、貴方ですよ」
 妃砂の言葉にルインは顔を上げた。この先の決意だけは最初から決まっている。
「引き下がる気はない。ただ……今少しだけは…」
「私は近くにいます。何かあればすぐに駆け付けますから…」
 マスターの心情を悟った妃砂は、貴族のように優雅な一礼をすると姿を消した。
 どこかにいるだろう守護精霊の気配を感じながら、ルインは小さく呟いた。
「……ありがとう」

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