First Chronicle 魔導士ルイン
14. 嵐と霧の向こう側
魔界は異世界。ヴァーツィアとは異なる別世界。けれど、それは環境や境遇が違うというだけで、世界存在そのものの原理は同じだ。探してみると共通する部分も見えてくる。
魔界はいつだって暗雲に覆われていて、黒い闇の空気を漂わせていると云われている。
しかし ──── 毎日が同じ風景であるとは限らない。
*
『レディ…無事ですか!?』
妃砂の声は自然と強くなっていた。通常精霊は人の脳裏に直接声を伝達させることができるので大声を出す必要は無い。だが、周りの状況を考えてみると仕方ないのかもしれない。
「大丈夫だ……今のところはなっ」
ルインも妃砂に負けないとばかりに大声を返す。しかし、今の彼女はとても大丈夫とは言い難い状態だった。なぜなら……ルインが進もうとする周辺一帯は、激しい嵐に見舞われていたからだ。
これだけは離すものか。しっかりと魔導杖を握りしめたルインは全身に力を入れて、冷たい岩場に這いつくばっていた。傍らでは全てをかき乱そうとする豪風雨が巨大な猛威を振るっている。ほんの少しでも油断したなら飛ばされてしまいそうだ。
その嵐はルインにとって、ヴァーツィアでも未だかつて遭遇したことの無い悪天候だった。例えるなら、とある書物に記された世界災厄 ── アースディストラードを彷彿させる。アースディストラードとは、あらゆる自然災害が一斉に引き起こり世界を破滅へと導くといわれる大災厄のことだ。この嵐にそこまでの力は無いと思うが……驚異的なものであることは変わりない。神の悪戯とも思える無慈悲な天候。巨大な敵を相手に人間であるルインはもちろん、彼女の守護者である妃砂も何もひとつ太刀打ちできなかった。防御魔法を一定範囲に展開すれば恐ろしい暴風雨を回避できないことは無い。だが、不安定なこの状態では集中力が乱れるし、魔力も分散化されてしまう。魔法の形を維持させることは難しいだろう。だから二人とも、避難場所を見つけて嵐を凌ぐ方が賢明だという判断を下していた。
そういうわけでルインはなんとかして前進し、もうすぐ辿り着く岩壁地帯を目指している。巨大な岩壁に憚れた場所なら、嵐の魔の手も弱いはずだ。
だが、近場であるはずの道のりは、辿り着くまでに長い時間を要した。
ごうごうと唸る強風はルインの小柄な身体を押しのけようとしていた。一時でも身体の力を抜いたらあっという間に攫われてしまう。大気の渦にはいろいろなものが巻き取られていて、その数は計り知れなかった。砂塵や木の葉・小石から始まって、人の頭ほどある岩石、ねじ取られた木など、大きなものまでが宙に踊らされる。その中には恐るべき刺客となって襲いかかろうとするものさえあった。
いうなれば自然の凶器だ ── まるでナイフのように鋭い木片、あるいは風によって勢いを得た岩石、あるいはなんてことの無い砂塵さえも殺傷能力を持つ。それは不遇にもルインを狙うかのように狂い踊っていた。嵐の猛攻に耐えながら前へ進むことだけを考えている彼女がそれに気付くことはない。受け身に走るルインは周囲の脅威へ意識を向ける余裕が無い状態だった。
風はさらに力を増すばかりだ。雨はまるで砲弾のように降りしきる。嵐の音にかき消された気配無き殺気は、静かに忍び寄っていた。そして、何かのきっかけで狙いが定まる。このままでは無防備な身体に致命傷となる一撃が襲いかかる。
だが……凶器が殺気を露わにした瞬間のことだ。
『雷護陣っ!』
バリッ! バシ、バシバシバシッ!!
主を護る雷光が即座に反応し、牙を向けた。嵐に紛れ込んだ凶器は次々と木っ端微塵に砕かれる。砂塵となった破片は辺りに散らばると、再び風の中へ吸いこまれていった。一瞬、何が起こったのか理解出来ずにいたルインは咄嗟に身を屈めていた。だが、妃砂の強い魔力が自分を護っていることを知って状況を察する。無意識に「ありがとう」と感謝の言葉を呟いていた。
『それよりも早く避難を…』
「わかってる…!」
荒れ狂う大地に四苦八苦しながら一歩一歩を踏み出す。飛ばされそうな身体を岩場にピタリと押し付けて風の様子を伺った。ごうごうと唸る風。雨は勢いを増している。焦ってはいけない。ゆっくり、少しずつ………まだまだまだ。少し風が弱まった…? どうする……行けるか…? ……よし、今しかない! でも焦るな、慎重に…慎重に! ルインは豪雨の強さを計りながらじわじわと岩伝いを進んだ。風の強さが増した時はその場で耐え凌ぐしかない。下手に動くと手足を取られてしまう。風が弱くなるタイミングを見計らい、再び移動し始める。正直、酷く手間の掛かる移動方法だった。けれどそうする他に方法が無い。兆場を耐えてこそ、得られる勝利がある。
苦労を乗り越えた末に、ルインは暴風雨の影響が少ない岩壁付近へ到達した。しかし、それでもまだ風雨は強い。纏っているマントは激しく靡き、法衣は冷たい雨でずぶ濡れだった。帽子にしみ込んだ水滴が頬を伝う。大分寒くなってきた。
ルインは休む間もなく慎重に辺りを探っていた。風雨の影響下が少ない安全な場所、そこに来るのは自分だけではないからだ。嵐を逃れようと考えるのは魔界の魔物も同じである。風の唸りが鳴り響く岩壁沿いをしばらく進んでいると思ったとおり、岩影で翼を折り畳んでいる魔物を見つけた。鳥類型の魔物だ。小型だが数十匹の群れを為している。暗いために姿ははっきりしないが、大きなくちばし、白い瞳、鱗のような表皮が見える。小尾はまるで何本もの針を束ねた形で先端が細く鋭い。彼らは時折頭を振っては、天上から落ちてくる水気を払っているようだった。おそらく嵐が去るまでここで休むつもりなのだろう。
『魔界の魔物も嵐には勝てないようですね』
妃砂の声には余裕があった。しかし周囲への警戒を怠っているわけではない。ルインは何も答えず、魔物の様子を伺っていた。今戦うのは非常に厄介なので出来れば避けて通りたい。気配を消しながら、ゆっくり、そうっと足を進める。大丈夫、彼らはこちらに気付いていはいない。
なんとか魔物の群れをやり過ごすと、ルインは再び岩壁沿いを進んだ。どこかに雨を凌げる都合の良い場所はないかと探し始めた。
その後、岩壁伝いにひっそりと開いている洞穴を見つけた。丁度人が通れる程の大きさで奥行きもある。他に嵐を避ける場所は無さそうなのでルインはここに身を置くことを決めた。
まずは魔物が潜んでいないかどうかを確かめるため、内部に魔法を放つ。威力控えめの衝撃は小さな破裂音を響かせた。すると、洞穴から白い煙が流れ出る。
煙が薄らいだところでルインは妃砂に尋ねた。
「どうだ…?」
『魔物はいません、入っても大丈夫ですよ』
確証を得たルインは洞穴の中へ入った。内部は文字通り暗い闇しかない。それでも躊躇うことなく進む。入口から少し入ったところでようやく豪風雨から逃れたルインは、大きく息を吐きながら岩壁に背中を付けた。そこからずるずる下がり落ちると力無く地面に座り込む。洞穴の岩肌は冷たい。耳を澄ませば外で唸りを上げている嵐の声が聞こえてくる。まだしばらく天候は落ち着きそうになかった。
「…妃砂、結界を頼む」
『ええ、了解です』
妃砂が手際よく結界を発動させる間、ルインの思考はぼんやりしたままだった。急に疲労が押し寄せてきて意識が徐々に薄れる。しかし、岩を伝って背筋に走る寒気にハッとなり、思い出したように濡れた帽子とマントを外した。それから腰のポシェットから丸くて小さいコルクのようなものをひとつ取り出し、自分から少し離れた場所へ転がす。一度息を整えてから、一言呟いた。
「炎よ…」
ルインの声に反応するようにコルクからは火の手が上がった。要は焚き火だ。そのコルクは魔力に反応する簡易式の火つけ種だった。これもまた友人のクリエーターが作った一品である。無事に帰還した時はたくさんお礼をしなければならないな、そんなことを頭の隅で思う。
炎がある程度大きくなると、ルインは濡れた上着を脱いで熱の届く地面へ広げた。そして自身は焚き火の前で膝を抱えながら座り、顔を伏せる。小さく丸くなるマスターを眺めていた妃砂はくすりと笑った。
『風邪、ひかないでくださいよ?』
「ああ」
やや間を空けてルインは言葉を続けた。
「…この嵐はしばらくやみそうにないな、こんな天候は初めてだ」
『風と水の精霊が暴れているようですね。おそらく後2、3日は続くでしょう」
「精霊が喧嘩でもしているのか?」
『ええ…普段は遊び半分で嵐を引き起こしたりするんですけどね。何か気に喰わないことが互いにあったようです』
「本気で争うと今みたいになる、ってことか…」
『そういうことです。…まぁ、しばらくはゆっくり休養してください。ここ最近、まともに休んでいないのですから』
「…そうだな、そうする」
『入口は封じていますが、寒くはないですか?』
「ん……火があるから平気だ。あとはお前に任せる…」
ルインが口を閉ざすと静まった空間に嵐の音と炎の燃える音だけが響いた。炎の光に照らされたルインはオレンジ色に染まりながら、目の前で揺れる炎をじっと見つめていた。赤い、紅い、緋い……一瞬、昔のことが脳裏に蘇ってきて思わず瞳を閉じる。
ルインは、炎があまり好きではなかった。炎が彷彿させるのは悲しい色ばかりだ。燃え上がる炎、地面に広がる血痕、崩れ落ちる瓦礫、海に沈む夕陽、緋色の断崖、雨に濡れた鮮血……どうして嫌なことばかり思い出してしまうのか。それは、自分にとって忘れられないことであるからだ。過去を、すべてを忘れることなんて出来ない。あり得ない。自分は一生この傷を背負うことでしか生きられないのだ。
そうして考えているうちに、ルインはいつの間にか眠ってしまっていた。すやすやと小さな寝息が聞こえてきたので妃砂は小さな笑みを浮かべる。普段は感情の無い顔ばかり浮かべているルインも人間だ。寝ている姿はたった一人の少女でしかない。24歳の大人に向かって少女と表現するのもおかしい話だが……精霊視点から言えば年齢は関係ない。妃砂が想うルインは見た目も心もいつまでも少女のような存在だった。
結界監視のため、魔導杖から抜け出た妃砂は眠っているルインの隣に座った。
── 休める時は、たくさん休んでくださいね。
そう、心の中で言葉を掛けると、いつも通り警戒態勢を整え始めた。
2日後。朝日こそ差さない世界だが、風は穏やかな静寂を取り戻していた。木々に茂る黒い葉からポタポタと滴が落ちる。身支度を済ませたルインは洞穴の外へ出ると、周辺の様子を伺った。相変わらずどんよりとした空気が鼻を掠め、暗雲漂う闇の世界が広がっている。しかし、嵐が去った恩恵なのだろうか、ほとんど尽きることの無かった霧が晴れていることに気が付いた。目を凝らせば遠くの山脈が良く見える。思えば魔界は山や森林、岩壁が多い場所だとルインは思った。どこを歩くにも岩場が多くて草木に包まれた草原や平原が少ない。大陸の中央にいるためなのか、海岸もまだ一度も見かけていない。
── 環境や地形の違いは精霊比率の違いから来るのだろうな。
世界ヴァーツィアは神の恩恵に恵まれた場所、すべての精霊が揃っていると云われている。基本8属性はもちろん、未知なる精霊も数多く存在しているのだ。それに対して魔界の大半は闇が占めていた。冷たい空気や地盤が多いのは闇の基本属性と云われる地・氷が多いためだ。
せっかく霧が晴れているのだから…。そう考えたルインは魔界独特の黒い岩場によじ上って眼下に広がる世界を眺めた。ここまで霧が晴れたのは本当に珍しい。今のうちに地形を見ておこうとルインは深い紫の瞳を凝らした。
手前の眼下には黒い森が広い手を伸ばしている。ある程度森の領域が終わるとごつごつした岩場が連なって岩壁へと続いていた。その奥には巨大な岩を切り立ったような断崖絶壁が行く手を阻んでいる。周辺には魔物が群れを為して飛んでいる様子が伺えた。
そうして景色を辿っていると、霞みがかったずっと向こう側に何かが見えたような気がした。それがいったい何なのか。はじめは遠くにある山かと思ったのだが、違った。理解するのに数秒を要し……しかし、理解した途端ルインの時間はしばらく止まった。
高くそびえる黒い影。一見切り立った巨大な岩肌のようにも思えるが、よく見ると疎らな明かりがところどころに灯っている。強い風が吹いたのだろうか。周りに漂う霞んだ霧が流されて、その影の実態が露わになった。
影は巨大な岩壁だった。ごつごつしているその肌には四角く切り取られた穴のようなものがいくつもある。どうやらそこから明かりが漏れているらしい。外に面した壁には、突起物のように細い主柱が列を成して並んでいる。その先には風で靡いている布が付けられていた。
風景に溶け込んだ黒地には、何かの模様が刻まれている。遠いためにはっきりとはわからないが、紅いシルエットが描かれている。どうやら蝙蝠を象っているようだ。
紅い蝙蝠……それが意味することを、ルインは知っていた。
魔王軍の紋章。
ヴァーツィアで戦っていた最中、何度も目にした敵軍の証だ。忘れるはずがない。忘れられるはずがない。自分の大切なものを奪った奴らの標を、今まで生きてきた時間の一時だって忘れたことは…!
胸の奥に眠っていたルインの緊張と憎悪は軍旗を見た瞬間、急速に膨れ上がる。あそこに自分が討つべき敵がいると思うだけで怒りが込み上がってきた。
両親、街の人々、仲間、友人、そして兄も…………あいつまで…!! 許さない……絶対に許しはしないっ! 私の大切なものを奪った悪魔なんて、滅べばいいっ!!!
強い感情はきっかけさえあればいくらでも外へ溢れ出るものだ。けれど、ルインはそれを出来る限り抑えていた。ほんの少し顔に出してしまったので目聡い妃砂はとっくに気付いているかもしれないが。でも今はまだ、感情を表に出す頃合いではない。
しばらく景色を眺めていたルインはようやく言葉を零した。
「…あれが、魔王城」
『ええ…そのようです。地形から見ても、間違いありません』
妃砂の声色はいつもより物静かだった。ああ…やっぱり気付いているのだろう。
「やっと、見つけたな……あの場所に魔王と、四天王がいる」
『………』
妃砂は小さく頷くだけだった。深く触れないのは彼なりの配慮なのだろう。普段は愛嬌があって計算高い振る舞いばかりするのに、こういう時の彼は本当に誠実だ。
── あとは決戦を迎えるだけ…。
遠い、けれど視界の範囲に捉えた魔王城。行き先の見えなかった闇の道は、今この瞬間に照らされた。本当の戦いはこれから始まる。けれど、目標が示されたことでルインの張り詰めていた気持ちは少し楽になる。
とはいえ油断は禁物だ。いかなる時も気を許した瞬間に終わってしまうことがある。それを、心の隅で覚えておかねばならない。
岩場を後にしたルインは再び足を進めた。岩場を下った先、すっかり魔界でお馴染みとなった黒い森へ進入する。魔王城へ辿り着くため、ここから先は今まで以上に気を引き締める必要がある。とくに魔物の戦闘は注意しなければ…。大きく騒ぎ立てると城にいる悪魔の目を惹きつけてしまうことになるからだ。
しかし、もうすぐ魔王城へ辿り着くのかと考えるとルインの気持ちは徐々に高まっていた。
そこには、長年求めていた敵が待ち構えている……。
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