First Chronicle 魔導士ルイン

13. 闇へ続く道Ⅱ

 魔界の空は薄暗い雲ばかりが広がっている。どんなに強い風が吹いても、雲は流れるだけで晴れ間を見せることはない。
 その暗雲は、永久の暗黒を埋め尽くしているようだった。


    *


 ルインは魔物との戦闘を繰り返しながら荒れた道を進んでいた。突き出た岩場を乗り越え、幾度となく黒い森を通り抜ける。時折休憩を入れながら先を目指した。
 ルインの数歩先では闇の精霊ドリーがふわふわと飛んでいる。人間の足並みに合わせなければ魔王城なんてあっという間なのに。そんなことを密かに思いながら、ドリーは時折後ろを振り返って彼女の歩くペースを確認した。こうして気遣っているのは、何も考えずに先へ進んでしまうと例外なく妃砂の牽制が飛んでくると知ったためだ。最初こそ『何するんだよー!?』と抗議したのだが、妃砂の不敵な笑みを見た瞬間にその気は失せてしまった。彼は特別強く何かを言ってきたわけではない。しかし、あの凍りつくような威圧感に逆らってはいけないと精霊の勘は告げていた。下級精霊の位置にあるドリーに対し、妃砂は高位精霊。自分より上位に付く彼の言葉を聞かないわけにはいかないのだ。いくら妃砂が人間憑きとはいえ高位という精霊地位に変わりはない。力差がある以上、精霊界の掟において逆らうことは賢明ではなかった。
 しかし、そんな状況下にあるとはいえ、ドリーはルインと一緒に行く冒険を楽しんでいた。いったいこれからどんなことが起こるのだろう? 先のことを考えると楽しくて仕方ない。
 ドリーがわくわくと胸を躍らせている、そんな時のことだ。
『…?』
 黒い精霊は急にピタリと動きを止めた。それから何かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡す。ドリーの様子を見ていたルインはいかにも怪訝な表情を浮かべていた。「…今度は何だ?」と溜め息混じりの言葉を零している。彼女の気分が急降下していることは間違いない。かれこれドリーには幾度も面倒事を起こされているのだから当然ともいえる反応だった。この前だって、思い返せば酷いことがあった ── ドリーが興味本位に魔花(マカ・植物性魔物の一種)を刺激させたせいで、ルインは彼らの洗礼を受けるはめになったのだ ── 。嫌なことを思い出してしまったルインは、あんな体験は二度とご免だ、と無意識に頭を横に振る。
 徐々に強張っていく人間の表情を真に受けたドリーは、早くしないと怒声が飛んでくると予見して慌てて答えを返した。
『ええっと、その……声が聞こえるから! ほら、さっきから同じことばかり言って……ルインは聞こえないの?』
「お前の甲高い声ならな」
『か、甲高いって…そんな言い方しなくてもいいじゃん! じゃなくて、違うよ!? アタシじゃなくて、別の声だよ…!!』
「お前以外に誰が話しているって言うんだ」
『マスター、どうやら彼女は面倒事を起こしたいようですよ?』
『妃砂まで!? ち、違うんだってば! だって、ほら…聞こえないの…!?』
 ドリーに聞こえる声。それは断片的に『これより先へ行くことは如何なる者も禁ずる』という警告の繰り返しだった。だが、先と変わらずルインには全く聞こえていない。だから彼女の機嫌は悪くなる一方で、弁解をしようにも矛盾を生じた状況では無意味に終わる。
 じゃあ精霊である妃砂は…? 期待を込めるようにドリーは自分より格上の高位精霊を伺ったのだが、結局彼にも聞こえていないらしい。
 いったいこの声の主は誰なのだろう…?
 それとも、自分の気のせい?



 ──……ているか? ……先は、…禁ずる…



 ──…行ってはならん………えないのか?





 『おい…聞こえないのか? そこの闇精霊!!』





『わぁ!?』
 やっぱり聞こえる! ビクっと身体を震わせたドリーはあたふたと周りを探り始めた。だが、やはり声主は見当たらない。ドリーが慌ただしく飛び回っている間に、とうとうルインの怒りは振り切れてしまった。
「おいっ、いったい何なんだ…!?」
『だ、だって誰かがアタシを呼んでいるんだもん!』
「私はお前に足止めされる暇はない! ……もう一人で勝手にしろ」
 冷たく言い放ったルインはすたすたと目指す先へ足を進めた。忙しさが増したドリーは『ちょっと!? そんな!! ま、待ってよ…!! だって、声がぁ……』と半ば混乱状態で彼女を追いかける。せっかく人間に会えたのにここで逃すわけにはいかない。かといって、自分に聞こえる声も気になるのだが……。

 ゴツ
『たっ!?』

 ドリーが見えない壁の存在を知ったのは、その壁に衝突した時のことだった。ルインを追いかけようとした途中、なぜか境界壁でもあるかのように先へ進めなくなってしまったのだ。目の前には何もないはずなのに。しかし進もうとしても何か得体の知れないものがドリーの行く先を阻んでいた。それに気付いていないルインの姿は霧の向こうへどんどん遠ざかってゆく。
『え、な、何!? 何で行けないのー!! ルイン待ってよぉーー!!!』
 ドリーの哀れな懇願はかろうじてルインの耳に入っていた。だが残念なことに、彼女には振り返る気は無く、完全無視を決めて進むだけだった。

 30分後。
 すっかりルインの姿は見えなくなってしまい、ドリーはがっくりと項垂れていた。何度も壁を越えようと体当たりしたり、魔法を放ってみたり、転移移動を試みたのだが、結局何をやっても先へ進むことは叶わなかったのだ。立ち往生を強いられた高台の岩場には黒い植物が根を張るばかりで周りには黒い森があるだけだった。岩場から見渡せる眼下には魔界特有の霧と荒地が広がっている。見晴らしが良いのか悪いのかよくわからない風景だ。
『ああもう…いったいどうなってるんだよぅ…』
 見飽きた風景にぼそりと愚痴が零れる。ドリーは目の前にあるだろう壁をペタペタ触っては確かめていた。そう、不思議なことに見えない壁はあるのだ。この壁はどこまで続いているのだろう。ドリーは壁伝いをそろそろと辿ってみた。しかし、一向に途切れる様子はない。どこかに抜け穴がないだろうかとも考えたけれど、考えたところで途方に暮れる作業だという結論に終わった。
 だいたい、なぜ人間のルインが通行できて自分だけが進めないのか。まさかルインが壁を作ったとか…? しかし思い返しても彼女が魔法を使ったような形跡は無かった。では、ルイン以外の誰かが自分の邪魔をしているのではないか? そう思い始めると、それは徐々に苛立ちへと変わっていった。いったい誰が邪魔しているのか。身体の奥底から沸き上がる感情はうずうずしてきて次第に黙っていられなくなる。
『こんな壁を作ったのは誰だぁーーー!!!』
 溜まりに溜まって大きな声を挙げた時だった。
『私だ』
『!?』
 声は自分のすぐそばから返ってきた。ドリーは驚愕の表情で辺りを伺う。すると、目の前に怪しげな陽炎が漂っていることを知った。陽炎からは絶えず強い魔力が感じられる……この魔力には覚えがある。ドリー馴染みの、闇精霊のものだ。
『もしかして…さっきの声の?』
 ドリーが尋ねると、陽炎はなぜか軽く笑いを零しながら言葉を返してきた。
『警告を無視して壁の存在にも衝突するまで気付かないとは……下級精霊とはその程度のものなのだな。それだけでは留まらず、警告も壁の存在意味を考えようとしないとはさすがだ。だからこうして私が直々に参上したというのに、ぽかんと口を開けたままでいるお前は未だに立場を分かっていないらしい。期待は元よりしないが一応聞いておこう、私が誰だか分かるか? ドリー?』
『な…なっ…?』
 なんで自分の名前を知っているの? そう聞き返したかったのだがドリーは上手く言葉にできずにいた。突然現れた相手にずらずらと言葉を並べられては圧巻されるのも当然だろう。その様子を察した陽炎は言葉を続けた。
『高位精霊ともなれば下級精霊を把握するのは当然のことだ』
『こ、高位…?』
『ふふ、この先とくと覚えておくが良い。私はこの境界を管理する闇の高位精霊 ── エリュグセイルだ』
 ドリーはますます声を失った。それもそうだ。エリュグセイルといえば、闇の精霊間で知らない者はいないといわれるほど高位に位置付く精霊なのである。エリュグセイルの名を認識した途端、ドリーは強大な威圧感に押されてしまった。ちっぽけな自分では到底計り知れない力が自分の目の前に立ち阻んでいるのだ。身体中に思わず寒気が走る。同じ精霊でありながら、その差は歴然としていた。
『ほう、驚いて声も出ないとはまさにお前のことだ。私の名が分からぬほど馬鹿では無いようだな。しかし、今私が問題視したいのはそこではない。私を知っているか知らないかはどうでも良いのだ。……ドリーよ、そろそろ落ち着きを取り戻したらどうだ? これではいつまで経っても話が進まないではないか』
 高位精霊エリュグセイルはしばしの間、目の前に佇む下級精霊を吟味するかのように眺めていた。未だ陽炎のように揺らめく姿であるためにエリュグセイル自身本来の表情は伺えない。それが返ってドリーの不安を煽る一つだったりするのだが、かといって本当の姿を見せてくださいなんて間違っても口に出来ない。口にした途端、自分の生はここで終わりを迎えると覚悟すべきだ。
 高位精霊を意識したドリーは慌てて背筋をピンっと正し、ようやく言葉を返した。
『は、はい…! えーと、…エリュグセイルさま…ア、アタシに何のご用でしょうか…?』
『用件は一点だけだ。これは警告ではないことを先に明言しておこう、絶対命令だ。どういうことかは分かるな? 如何なる場合も例外は許されない。違反した者は知っての通り厳罰が与えられる事項となる。その身に深く刻んでおけ』
 いつの間にかエリュグセイルの声は冷たく鋭いものへと変化していた。最初の温和な空気はどこへ行ったのか。それともこれが彼の真の姿なのだろうか。
 ドリーは緊張した面持ちで話を聞いていた。絶対命令、絶対命令、絶対命令……。頭の中で繰り返されるその言葉は下級精霊にとても重く圧力がかかる。その浸透を直に眺めたエリュグセイルは本題へ入った。本題といっても、さほど難しいことではない。
『事前に伝達している通り、これより先は闇精霊の進入を禁止する』
『ええ! なんでっ…じゃない。どうして、ですか…?』
 うっかり敬語を忘れそうになったドリーはたどたどしく言い直す。エリュグセイルはしばらく黙ったままだった。もしかして機嫌を悪くさせてしまった…? まさかこのまま抹消させられるなんてことは…。ドリーはふと、高位精霊によって世界から消された精霊の話を思い出した。自分も不幸な精霊の仲間入りになるのかと考えると胸が締め付けられる心境だ。そんなのは御免こうむりたい。だから早くエリュグセイルさま、何か答えて!と切に願う。間が空いたのはほんの数分のことなのに、ドリーにとっては何時間もの長い時間にのように感じられた。
 下級精霊の心境を知ってか知らずか、ややあってからエリュグセイルは淡白に答える。
『お前たちを護るためだ。それ以外に理由はない』
『ま、護るって…?』
『護るの意味もわからないのか?』
『違っ…いや、違います! 何から護るのかと思いまして…』
『この先にあるものを考えれば答えはしごく簡単だ』
『……魔王城?』
『知っているはずだ。魔王城周辺では我々の多くが取り込まれている。仲間を護ることは私に課せられた使命であり義務だ。故にお前が進むことは許さない……わかったな?』
 陽炎であるとはいえエリュグセイルの放つ気迫はドリーに有無を言わせなかった。逆らうことはできない。逆らったら最期、自分はここから消されてしまう。ドリーはエリュグセイルの命令を素直に受け入れた。そこへ至る大半の理由は精霊界の厳しい上下関係の賜物だ。
 しかし、ドリーには今なお惜しんでいることがある。だから、最後にもう一度だけその希望を確かめることにした。
『あの…エリュグセイルさま? 聞きたいことがあるんですけど…』
『何だ?』
『その…アタシはもう、ルインには会えないのでしょうか?』
『ルイン…? ああ…お前が共にしていた人間のことか。彼女が向こう側にいる以上、会うことは叶わないな。諦めろ』
『や、やっぱり…? ああ、そんなぁ……』
 せっかくルインと打ち解けてきたのに、少なくともドリーはそう思っている。まさかこんな形で自分の夢が奪われることになるとは思っていなかった。ドリーは酷く肩を落とし、落胆した。命も大事ではあるが、それと同じくらい自分の望みも大切なものだったのだ。だが、今となっては諦めるしかない。
 かくして、闇の精霊ドリーの長くも短い旅は儚くも終わりを迎えるのだった。



 一方。ドリーの夢が潰えたことは露知らず、ルインは魔王城を探して進んでいた。その顔にはさっきからずっとムッとしたような表情が貼り付けられている。
 彼女が不機嫌になるのも無理はない。邪魔にしかならないあの闇精霊を今日まで大目に見てきたことが不思議なくらいなのだから。
 しかし、厄介事も今日で終わり、ここから先は本来の旅へ戻るだろう。魔導杖に身を置く妃砂は密かに喜んでいた。ようやくルインの余計な荷物が減ったので安心したのだ。
 ── どこの誰かは知りえませんが、ありがとうございます。
 妃砂は心の中で感謝の言葉を呟いていた。彼のいう“誰か”とは、ドリーが話していた声の主だ。闇の精霊が聞こえたという声……実は妃砂はおおよその見当が付いていた。もちろん声が聞こえてはいたわけではない、しかし、彼は高位精霊だ。精霊には属性間思念伝達という特定の属性精霊だけに言葉を伝える能力があることを妃砂は承知していた。おそらくドリーが聞いた声は闇の精霊だけに伝えられたもの……発信源は闇の高位精霊なのだろう。何を告げていたのかは知らないが、都合よくルインとドリーを切り離してくれたのは確かだ。
「妃砂、マークはもういらない」
『そうですね』
 ルインの言葉に妃砂はひとつの警戒を解いた。ドリーに対する懸念はもう必要無い。ルインの守護者として契約を交わす妃砂は、今までずっと魔界で遭遇するすべてのものに対して警戒を怠ることはなかった。それは精霊も例外ではない。彼は闇の精霊 ── ドリーを密かに監視していた。魔界の精霊が悪魔に通じている可能性は十分あり得るからだ。
 精霊は基本的に人には干渉しない存在なのだが、強い魔力に惹かれて興味を抱く傾向がある。ルインの魔力に惹かれた……かつての自分のように。ルインが口にする「マーク」とは、追従を含めて相手を警戒するという意味で使われている。
 となると、以前妃砂はドリーに『監視はしていない』と言った。もちろんそれは嘘になる。しかし全てが嘘になるわけではない。あの時監視していたのはドリーだけではなかったのだから。屁理屈だと言われればそれまでだが、相手に問われない限りは正当化されるものである。
 辺りを警戒しつつ、周囲を確認した妃砂は言葉を紡いだ。
『霧がかかる東の谷、奥へと連なる山系……ドリーの道筋は間違ってはいません。ここから先は私が城への案内役になりましょう』
「ああ、頼んだぞ」

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