First Chronicle 魔導士ルイン

1. 決意の日

 空は快晴。
 正確には快晴と言うべき空色ではないが。
 何せ今の世界は悪魔がもたらす闇に覆われようとしているのだ。空の遙か彼方の一画は赤と黒が混ざり合い、不気味な色彩に染まっている。
 その空の下、『ルーンの丘』と呼ばれる場所に一人の魔導士と、銀の竜を連れた青年がいた。

 魔導士はいかにも魔導士らしい三角帽子を被り、そこからは黒い髪が風に揺れている。右手には宝石類で装飾された杖が握られ、腰には華奢な身体には似合わない1本の剣。
 魔導士はただ、じっと赤黒い空を睨み続けていた。
 心の底から込み上がるのは怒り、そして憎しみ。溢れ出る感情をどうにか押さえてはいるが……深い紫色の、その瞳だけはギラギラと光っている。

「ほんとうに…行くつもりなのかい?」
 魔導士の傍にいた青年が心配そうに声を掛けた。
 藍色のマントを身に纏った銀髪の青年。澄んだ蒼色の瞳は真っ直ぐに魔導士の背中を見つめている。青年の背後には大きな竜の影があった。
「当然だ。私が行かねば誰が行く?」
 魔導士は後ろを振り返らずに答えた。
「でもルイン、君一人だけじゃ…」
「………」
 魔導士 ── ルインは何も言わず、手にしていた杖の柄で地面に大きく何かを描き始める。
 青年は返事を待つように、彼女の姿を目で追った。
 金色の瞳で二人を見下ろす銀の竜は彼らのやりとりを見守るだけだった。



 しばらくの静寂が続いた後、ルインの動きはようやく止まった。
 地面に描いていたのは古代文字で施した魔法陣。描いたばかりのそれは淡く光を発していた。

「一人ではない」
 魔法陣を描き終えたルインは初めて青年に振り返り、先程の答えを返す。凛とした表情。紫の眼差しは強い意志を放っていた。
 胸に手を当ててから腰に結っていた一本の剣にそっと手を触れ、懐かしそうに目を細める。
「兄さんも、あいつも……一緒だから」
 ルインは静かに呟き、それから空を見上げた。
 この日をどんなに待っていたことだろうか。脳裏に浮かぶのは嫌なこと、苦しいこと、悲しいことばかりだった。まるで走馬燈のようにルインの思考はぐるぐると廻る。
 だが違う。ここにいるのは嘆くためじゃない。
 沈んでしまいそうな思考を払うように、ルインは一度首を振った。
「私は必ず……魔王を倒す」
 そう呟いて、また空を見上げる。
 渦巻くような闇で覆われた空。
 その先には異世界『魔界オルセイア』がある。

 兄と親友を殺した悪魔。
 人々を恐怖で支配する暗黒。
 すべての邪気を統べる魔王。

 自分の敵がそこにいる。
 そう思うと、杖を握るルインの手には自然と力が入った。



「ルイン忘れないで」
 青年は再び声を掛ける。ルインはゆっくりと振り向き、彼を見た。
 白い肌に揺れる銀色の髪。何もかも見透かすような蒼い瞳。誰が見ても美形と言える顔立ちだった。瞬く間に視線を釘付けにしてしまう、容姿秀麗とはこのことだろうか。
 そんなことを考えてしばし魅了されそうになったとき、青年は真剣な表情で言った。
「全ての悪魔が、悪意を持っているわけじゃないんだ」
「今更何を…」
 彼の言葉にルインは棘が刺さるような嫌悪を抱く。表情は強ばり、険しくなった。
 だが、彼は続ける。
「確かに悪魔は君の大切なものを奪ってしまったかもしれない、でもそれは…」
「やめろっ!」
 青年が最後まで言い終わる前にルインは声を荒げた。なんとなく彼が言おうとすることが予想できたのだ。急に降りかかった怒声に青年は言葉を噤む。少しだけ、悲しみを帯びた表情を浮かべていた。
 ルインはハッとして彼から目を逸らし、顔を俯ける。
「わかってる。そんなことは……もうわかっているんだ、キルシス」
 静かに、自分に言い聞かせるように、言葉は紡がれる。
「でも……私の気持ちの澱みは未だに残ったまま、消えることがない」
 ルインは自分に不釣り合いな剣を握りしめ、かすかに涙を浮かべていた。
 その様子に青年 ── キルシスはそれ以上、何も言わなかった。いや、言うべき言葉が見つからなかった。彼はルインの心にずっと残り続ける傷を知っている。彼女がこれから魔王を倒そうとしている理由もすべて。
 だからこそ心配していた。彼女の実力は承知しているけれど、不安を消すことはできない。
 でも、自分では彼女を止める術はないのだと改めて思い知らされた。本当は助けになりたかったのに、何も出来ないことがもどかしい。
 僅かに胸の痛みを感じながら、キルシスはルインの涙を拭った。
 そして……
「ごめん…ルイン」
 そう、呟いた。



「僕は一緒に行けないけど……ここで君が無事に帰ってくることを祈るよ」
 キルシスの言葉にルインは安堵した様子で頷く。
「ありがとう…それだけで十分だ」
 少しだけ微笑みながら、俯いていた顔を上げた。

『ルイン』
 キルシスとは違う声が、ルインの耳に届く。
 自分の名前を呼んでいるこの声の主は、今まで黙って二人を見ていた銀の竜だった。その声は、竜とは思えないほど静かで透き通っている。
 ルインは自分を見下ろす大きな竜に視線を向けた。
『闇に呑まれぬよう、決して自分自身を見失うな』
 竜は長い首をルインの目線まで降ろして言った。声を発したというよりは、心に響くような感じである。美しい銀色の身体は、陽の光に照らされて一層輝いていた。
 竜の、金色の瞳を真っ直ぐ見つめて、ルインは頷く。
「ああ、わかっている」
 一呼吸おいて、キルシスと竜を交互に見た。
「キルシス、シルヴィス、ありがとう。それじゃあ…行ってくる」
 そう言って、ルインは彼らに背を向ける。
 先程描いた魔法陣の上に立つと、右手の杖を掲げて魔法を唱えた。言葉とともに魔法陣が輝き、虹色の光が全身を包み込む。
 そしてそのまま……光と共に、ルインの姿は消えていった。





 ヴァーツィア暦1711年。
 青天(クーシ)の月のことであった。

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