時の臨界

―― 絶対に彼らを許しはしない ――

―― 私は……こんなところで朽ちるわけにはいかない…!――



 声が、聞こえた。
 絶望を抱く暗い炎。
 胸の奥に秘められた灯火は孤独でありながらも……生きようとしている。
 人はなぜそこまで強欲なのだろう、そう常々思うものだ。
 だから、その主を探してみようと行動したのは単なる気まぐれ。
 情を抱いたわけじゃない。
 意味など、無かった。


    *


「それで…君は今、自分が何をしようとしているのか理解してるのか?」
 影が揺れる。物理・原子を司る精霊 ―― アークは目の前で揺らめく黒い影を見ていた。波打つようにチラつく影。霧のごとく漂うそれは次第に姿を現すと、紫黒の瞳で彼を見つめ返している。
「君が司るのは時間。この世の誰もが干渉できない時空の力だ」
「………」
 アークの言葉に相手の精霊は静かに耳を傾けていた。漆黒の髪から覗く色白な顔立ちからは何の表情も見られない。しかし、それがいつもと変わらない様子であるために、アークはそのまま話を続けた。
「時の力を使う意味……まさか、分からないとは言わないだろう?」
 彼の問いかけに彼女は黙ったままだった。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか。感情の無い顔からでは彼女の思惑など一つも伺えない。時空を違える彼女の周りには蜃気楼が霞がかかり、儚い霧のような独特の気配はすぐにでも消えてしまいそうだった。アークは一時も彼女から視線を外さなかった。
「……あの方への、反逆だと…?」
 ようやく発せられた彼女の声は疑心暗鬼に満ちていた。孤立した存在は心を閉ざす一方で、なかなか開かれることがない。だが、言葉が返ってくるだけでもアークにとっては前進していた。もっと昔であれば、言葉を求める……いや、彼女に逢うことでさえ困難だったのだ。
「私もお前も、あの方の意思と共にある。そう誓っている。……なのに、お前は私が逆らうとでも言いたいようだ」
 伏し目がちな瞳で彼女はアークを睨んでいた。再び心を閉ざそうとする兆しなのかもしれない。けれどアークは、少なからず嬉しかった。他の精霊の前では姿さえ見せない彼女が、こうして真っ直ぐに相手を見ることはなかなか無い。まさに自分だけが勝ち取った特権。そうなるともう少しだけ彼女へ近づけないものかと考えてしまい、アークは言葉を紡ぐ。
「別に君を疑っているわけじゃないさ。ただ、君が思っていなくても結果的にそうなるかもしれない」
「…なるほど、彼を疑っているのか」
「そういうことになる、かな」
 彼女の言う「彼」。アークはその彼が好きではなかった。その理由の一つは、彼が自分たちと同じ精霊ではなかったから。そして……。
「だいたい、どうして君は彼に手を貸したんだ? 仲良くなるだけならまだ良い。でも……よりによって君の力を与えてしまうなんて」
「彼は、私の友人だ」
 アークの言動が気に入らなかったのか、彼女は強調するような口調で言葉を紡いだ。彼女の反応にアークはほんの少しだけ悔しさを覚える。いったいなぜ、彼女は人に力を貸したのだろうか。先も語ったように、時の力は彼女以外に干渉出来る者はおらず、その力は何よりも絶大な影響力を持っている。そんな力を人に与えてしまっては何が起こるか分からないというのに。
 アークがしばしそんなことを考えていると、何か寒気のようなものを感じてハッとなった。急激に薄れる相手の気配。すぐに勘付いたアークは彼女の名を呼んでいた。
「アルヴィー…?」
 だが、名前を呼ばれた時の精霊は振り返ることなく姿を消した。


    *


「朗報だよ、アルヴィクス」
 音も立てずに現れたにも関わらず、彼は時の精霊 ―― アルヴィクスの存在に気が付いた。彼女が見下ろす先にいるのは左右色の違う瞳を持つ青年だ。
「……朗報…?」
「ふふ、優秀な同胞を見つけたんだ。彼が加われば、この計画は急速な進展を迎えるだろう」
 彼の言葉使いにはどこか物怖じしない雰囲気がある。紺色の髪から覗く顔には自信のようなものが表れていた。
 アルヴィクスは「そうか」と頷きはしたが、それ以上追及することはなく青年の動向を眺めていた。


 彼に出逢ったのは気まぐれだった。声が聞こえたからなんとなく様子を観察しようと思っていただけで、深い意味はまったくなかった。
 けれど、アルヴィクスは彼に共感を覚えることになった。感情の薄い自分がまさか人に情を持つなんてあり得ない。あり得ないはずなのに……どうしてか、彼の気持ちが分かるような気がして、手を差し伸べていた。
 その結果、力を得た彼は次々と彼自身の望みを叶えるようになった。
「ここに私が存在出来るのは、すべて貴方のおかげだよ。ありがとう、アルヴィクス」
 人間には時折、恩を仇で返すような者がいるというが、彼は感謝を忘れない人だった。だから、彼から感謝の言葉を言われると、アルヴィクスの心は不思議と綻んでいた。


 ―― 彼が望みを叶え、幸せになれるというのなら……。


「残るは竜と……神の力」
 青年の呟きが聞こえてアルヴィクスは眉をひそめた。彼が口にした言葉を思わず聞き返してしまう。
「神の、力…?」
「そうだよ、アルヴィクス。神の力を得ることが出来れば、この世界はすべて我らにひれ伏す……望みを叶えるために必要なことだ」
「……お前は、神の存在を信じているのか」
「信じるも何も……時の精霊である貴方なら知ってることじゃないのかい?」
 青年は微笑を浮かべながら答えた。その自信に満ちた表情を見る限り、不意を打ったつもりで言ったのだろう。しかし、アルヴィクスがそう簡単に感情を表に出すことはないと知っていたので彼はすぐに「冗談だよ」と肩を竦めた。
「それに、例え知っていても教えてはくれないだろうしね」
「………」
「さて、と。そろそろ検証の時間だ。……貴方も同席するかい?」
 青年に尋ねられて、アルヴィクスはしばらく考えた。けれど案外答えはすぐに出る。
「…私は、お前たちの検証に興味がある」
 無表情ながらも素直な言葉を返すアルヴィクスに、青年は「そう来なくては」と喜んでいるようだった。
「我ながら、貴方も驚く結果を見ることになるはずだよ」


    *


 アルヴィクスが去った後、アークは一人物思いに耽っていた。おそらく彼女は友人 ―― 人間の元へ行ったのだろう。我ら精霊にさえ姿を見せることは極稀だというのに、なぜ彼女はあの人間にこだわるのか。人間の中でも特別な種族であるからなのか…?
 そうして頭を悩ませていると、見覚えのある羽根がアークの視界を掠めた。
「やぁアーク」
 目の前に現れたのは聖なる炎を司る者 ―― フェニックスだった。煌びやかな聖鳥が地面へ降り立つと一瞬だけ空気が閃き、フェニックスは人の姿へと変わる。金の刺繍が施された衣を纏い、クリムゾンの燃えるような赤毛はふわふわと流れている。人型となった彼には貴族のような雰囲気があり、整然とした威厳を持ち合わせていた。しかし実際は、物腰の柔らかい社交的な精霊だ。
 フェニックスは何の躊躇いもなくアークの元へとやってくる。
「珍しいですね、貴方がここへ来るなんて…」
「ちょっとした散歩だよ。君の姿が見えたものだから寄ってみたのさ」
「なるほど…」
「おや、元気がないね。何かあったのかい?」
「別に、たいしたことではありませんよ」
 きっぱり答えを返すアークであるが、その表情は明るいものではない。ふーん?、と彼の顔を眺めるフェニックスは察し良く言葉を紡ぐ。
「たいしたことではないのに浮かない顔だ」
「………」
「もちろん無理に聞きはしないさ。けれど、悩み過ぎは禁物だ」
 フェニックスの穏やかで優しい表情は相手をホッと安心させてしまう効力があるらしい。たいしたことではないと答えたものの、アークは彼に心の内を話してみようかと考え始めた。というのも、フェニックスは人間に関心を持っていると聞いている。彼ならアルヴィクスが人間へ執着する理由を理解できるのかもしれない。しかし……自分で理解しないまま、より可能性のある者へ頼ってしまうのはどうかと思い、アークは遠回しに言葉を返していた。
「フェニックスは、人間と交流があるんですか?」
「時々言葉を交わす程度なら。他の精霊たちは彼らと距離を置きがちだが、彼らの本当の姿を知るには近づいてみないと実際は分からないからね。外見で判断できることはごく一部……だから、話すことで相手を知る・理解することが1番だと私は思っているよ」
「話すことで相手を、理解できる…」
「すぐに、というわけにはいかない。けれど回数を重ねていけば次第に心は変わり始めるものさ。そこには精霊も人間も関係ない」
 アークはアルヴィクスの場合を考えていた。確かに、会話をすることで彼女との距離は縮まっている。初めこそ自分の一方的な会話ではあったけれど、回数を重ねるごとに口数の少ない彼女は言葉を返すようになっていた。しかし今は、あと一歩が思うように踏み込めない。
 一人考え込むアークを見たフェニックスは楽しそうな顔を浮かべていた。
「……ふむ、アーク、君には理解したい人がいるようだね」
 その言葉はアークの心情を揺さぶるには十分な効果があった。どう答えていいものなのか……隠そうと思っても顔には出してしまったので、今更隠したところで意味がない。そう思うとアークは素直に頷くことしか出来なかった。
「えーと…まぁ、そんなところです。近頃はなかなか上手くいかなくて」
「そうか。でも心配することはないよ。君に相手を想う気持ちがあるのなら、きちんと伝わるはずだ」
 フェニックスはにっこりと笑みを浮かべるだけで、相手が誰なのかという追及はしてこなかった。もしかしたら上位の精霊には読心術というものがあり、自分の考えていることなどとっくに知っていたのでは……そんなことをアークは考えてしまう。だがそれでも、フェニックスの言葉はとてもありがたくて、気づけば沈みがちだったアークも笑うことができた。

 去りゆくフェニックスを見送った後、アークは時を渡る友人のことを想う。
 いずれまた、彼女は姿を見せるだろう。

 ―― 焦ってはいけない。ゆっくり話していけばきっと……。