新しい時代

 広い海原を駆ける巨大な影。
 6枚の翼が力強く風を仰ぎ、大地を越えた。



 天空を覆ったその姿に、人々は未知なるものを知った。

 ―― あれは何だろう?
 金色の瞳が輝く。
 その眼差しに人々の精神が射抜かれた。

 ―― 不吉な予感。
 地面に大きな爪を立てて降り立つ。
 その姿に人々の心は恐怖に駆られた。

 ―― 生き物なのか…?
 頭には鋭い角。全身を覆う鎧のような鱗が光る。背に広がった巨大な翼。金糸の尾。
 舞い上がる衝撃。向けられた牙。交わされる言葉。
 理解する間もなく、人々は答を出してしまった。



 ―― 奴は危険だっ!
 崩壊する世界。忌まわしき魔物。
 勝利する者。手にした平和。失ったもの。
 奪われる幸福、名誉、誇り。

 断片的な言葉を紡ぎ、現れたもの。
 それは人々の理想郷という幻想が語った、闇に潜む負の感情。


『あれは魔物だ。巨大な魔物に違いない』
『まさか、我らの国を狙っているのか?』
『何かを話しているようだが理解できない』
『聞く耳を持つな。相手は魔物、我々の敵だ』
『奴は我らを襲うタイミングを計っているのだろう』
『さぁ!皆よく聞け!!』
『あいつは魔物だ!魔物は敵である!このままではこちらが危機にさらされる!!』
『そうなる前に奴を殺せ!殺すんだっ!必ず息の根を止めろ!!』


 一斉に高まった殺気は次々と空へ射出される。
 鋭利な銀閃、弧を描く弓矢、重い砲撃、煌く魔の波動……。

 傷つけられた巨大な影 ―― 竜は大地に堕とされた。



 + + + + +



「新しい時代が動き出した…」
 茶髪の少年は一人呟いた。
 その少年は緑を基調とした不思議な衣服を身に付けていた。背中から2本、帯のようなものが伸び、胸の辺りで交差している。くるりと身に纏うそれは、少年を護っているようだ。
 周りには誰もいなかった。ただ、何も変わり映えのない空間がどこまでも広がっている。色で表すと黒だが、闇というわけではない。辺りにはキラキラ瞬く光があり、例えるのなら宇宙にも似ている。
 ここは、無の空間だった。

 目の前で展開する映像を見て、少年の顔に僅かな笑みが浮かんだ。
 丁度目線の高さに漂う楕円形のもの、まるで鏡のようなスクリーン。その表面上に、この空間とは異なる風景が映し出されていた。
 青い空、緑の森、果てしない海、豊かな大地。そこには生命が溢れ、それぞれが自我を持ち意志を持って生活している。これらは星の風景だった。
 そして、今し方映像に映し出されたのは、計り知れない力を持つという巨大な竜だった。竜とは、住処とする集落から決して離れない生命だ。しかし、映像に映る一頭の竜は掟を破り、見知らぬ場所を目指して翼を広げている。
 これから起こるだろう、ずっと交わることの無かった関係性に少年は期待をしていた。

 だが、順調に流れていた映像は途中ザザザ…という嫌な音を上げた。直後にノイズが掛かってしまい何も見えなくなってしまう。
 特別慌てるということはないが、少年は小さな溜め息を吐いた。
「肝心な時にどうしてこうなるかなぁ?」
 そう呟くと、両掌をスクリーンに向けて何やら集中する。もう一度再構成すべく、少年は己が持つ力を使った。
 キィィン…
 仄かに光が溢れ、すぐに消える。少年は眉を顰め、スクリーンを見つめた。自分では完全復帰させたつもりだったのだが、映像は乱れたままである。
「僕にはまだまだ制御できないってことなのかな」
 見解は一理あった。異なる場所を映し出す技術はもともと自分のものではない。これを使いこなすためには相当の力と知識を必要としていた。
 意図も簡単に、しかも毎日日課として使っている「あの方」はやはり凄い。身近に見ていた少年は、自分も使えるようにならないものかと思い真似ていたのだが、自分の力では遠く及ばないものだと改めて実感した。
「まぁ…星の領域だったら完璧なんだけど」
 少年にはわかっていた。ここにいる限り、十分な力を発揮することは絶対に出来ない。
 この場所、<無の空間>は自分が自由に振る舞える領域ではないのだ。

 とりあえず、乱れたままの映像をしばらく見つめていた。耳を澄ませ、ノイズに混じる声を聞き取ろうとする。だが、完全ではないスクリーンからではどうにも内容が把握できない。
 しばし映像と格闘していたが、少年はようやく諦めることを受け入れ、肩を降ろした。
「仕方ない。戻るしかないか…」
 少年は自分の在るべき場所へ帰ろうと準備を始めた。

「帰るのかい?」
 どこからともなく聞こえた声に少年の動きは止まる。振り返った先には、青年が一人立っていた。
 純白の衣服に紫の羽衣はとても映える。肩下くらいまである白緑の髪。肌はまるで白磁のようだ。整った顔立ちから覗く深緑の瞳が真っ直ぐに少年を見つめている。
 何者も射止めてしまうだろう素晴らしい容姿。しかし少年は何度も見慣れているために、これといった極端な反応はしない。見知った相手に少しばかり姿勢を下げて、いつも通り言葉を返すだけだった。
「ずっとここにいるわけにもいかないので」
「ここでは何も見えないから?」
 すぐに核心を突く辺り、一筋縄ではいかない青年だ。とはいえ少年も自分の事を隠したりはしない。隠したって、彼には全て見通されているからだ。
 少年は不完全なスクリーンに視線を向けて応える。
「そうです。ここだと僕が持つ力は十分ではありませんし…」
「彼らが気になるというわけか」
「はい」
「そうか、だったらここで見ていくといいよ」
 青年はニコリと微笑むと、右手を空間に仰いだ。どこからか風のようなものが流れて、少年が創り出したスクリーンを光で包む。すると、乱れたノイズがたちまち消えていき、鮮明な音が空間に響いた。
 あっという間に修復されたスクリーンには、はっきりと映像が流れる。少年は感心の他に抱くものが何もなかった。
「さすがですね」
「当然だよ。そういえば…」
 青年はじっとスクリーンを見る。
 その映像には荒野の大地に墜落する竜が映し出されていた。全身に深い傷を負っていて、今にも消え入りそうな命。良心がある者なら助けてあげたい、そう思う場面だろう。
「君が時代の動きを見るのは初めてだね」
「ええ。だからこそ最後まで見たいと思いました。…ところで、どうしてこういう経過に至ったか分かります?」
 少年は映像で展開される内容に興味津々だった。それだけに先程スクリーンが不完全だったことがほんの少し悔やまれる。
 それを知りつつ青年は応えた。
「もちろん。私を誰だと思っている?オリジン」
「僕の失言でしたか?」
 試すような青年の言い分に、オリジンと呼ばれた少年は謙虚な態度を見せる。けれどその視線は尚も映像に釘付けだった。よほど竜のことが気になっているようだ。
 まるで子供のようなその仕草に、青年はやんわりと笑みを浮かべる。
「そんなことはない、寧ろ嬉しいよ。それだけ君が興味を抱いていることがね」
「そうですか、良かったです。……で、先の内容を教えて貰えますか?早くしないと話が進んでしまいます」
 幾分急かすようにオリジンは言った。誰に口を訊いているのか分かっているのか、他の者がこの様子を見たならそう思ってしまうのだろう。相手がその青年であるが故に。
 だが、当人は嫌悪一つ抱いてはいない。
「竜が傷ついたのは、人間に迫害されたからだよ」
「人間、ですか」
「オリジン、今後の展開をどう考える?このままでは竜は息絶えてしまうだろう」
「僕の意見は二つ。一つは、残された竜達が掟を破った当然の報いだと罵るだけ。二つ目は、報いだと思いつつも同胞を失った哀しみの衝動で竜達が人間達に攻め入る……どちらせよこの竜は死ぬという結果です。貴方はどう思うのですか?」
「私には分からない。そういうことは考えないようにしているんだ」
 オリジンは眉を顰めて青年の方を見る。返された答えに納得していないという表情だ。
「それって矛盾してません?どうして僕に聞いたんですか?」
「君の意見を聞いてみたかっただけさ。……そろそろ展開が進むよ」
 そう言われてオリジンがスクリーンに視線を戻すと、倒れた竜のもとへ一人の人間が近付いていた。



 すべてを見届けた後、青年は言った。
「君の意見は外れたね」
「そうですね。竜は死ななかった……」
 オリジンは自分の意見を過信していたのだろう。どこか戸惑い、落ち込んでいるようにも見える。
 結果的に竜は生きていた。
 命が尽き果ててしまいそうだったあの時、竜の元に現れた人間は留めを刺しに来たのではなかった。竜を傷つけたのは確かに人間だったが、その人間は違う。竜を異端視することなく……助けたのだ。
 この事は後に時代を変えることに繋がるものだった。
「時代の変化は私でさえ掴めない」
 青年はオリジンを気遣うように微笑む。素直にそれを受け止めたオリジンは、今尚映し出されているスクリーンに視線を向けながら応えた。
「貴方はずっとこうして見守っているんですね」
「それが私の役目というものさ。オリジン、君も同じだよ」
「はい。本当は単なる興味本意だけでしたが……良い経験になりました」
「そうか」
 青年と顔を合わせたオリジンは笑顔を浮かべた。

「では、僕はそろそろ戻りますね」
「うん」
 オリジンはふわりと浮かび上がり、衣服に連なる2本の帯が揺れる。見上げている青年を見つめ、丁重に頭を下げた。
「我がオリジンの存在は、いつまでも貴方の意志と共に」
「そんなこと言う必要ないのに。……でも、これからもよろしく頼むよ」
「もちろんですよ。ユイティラーゼ様」
 青年に敬意を示し、オリジンは強い光に包まれてその姿を消す。
 残された青年 ―― ユイティラーゼはしばらく空間を眺めていた。

 やがて踵を返し、自ら発光する球体物質の元へ向かうと両手を広げて、力を使う。すると一瞬にしてたくさんのスクリーンが現れた。オリジンが創るものとは比にならない数だ。視界前方180度を囲むそれには、様々な映像が映り出されている。
 その中には、先程帰ったオリジンの姿もあれば、さきほどまで見届けていた竜と人間の姿もあった。他にも人間が住む街、大地に根付いた自然、海に棲む生物たち、数多くの風景がユイティラーゼの瞳に飛び込んでくる。
 そして、彼はある一つの映像に惹かれ、眺め見た。
 荒れ狂った草も水もない枯れた大地に顔を出した小さな芽吹き。この土地ではすぐに死んでしまいそうだが、幸運にも地・風・水・光の精霊たちがその息吹を守ろうとしていた。
 その様子を見て、表情にも自然と笑みが浮かぶ。
「本当に何が起こるか分からない……だから最後まで見ていたいんだ」



 小さな生命の誕生に喜びを感じる創造神。
 ユイティラーゼはいつまでも星を見守り続けていた。