Story - A Wisp of Wish -

A Wisp of Wish - 一つの望み、一時の幸せ -

長い廊下を歩む中、一つの扉が目に映る。
本当はそのまま通り過ぎようと思っていた。
だが、無意識に足が扉の前で止まってしまう。
なぜだろう。
こんなにも後ろめたい気持ちが自分の精神を支配する。
自分が求めた道に進むには、ここは避けては通れない。
そんな気がして、ドアノブに手を伸ばした。



ガチャリ…
扉が開く音が聞こえたので、シフィグはゆっくりと身体を起こした。
きっとガイアスが訪れたのだろう。
嬉しいけれど、あまり息子に心配を掛けさせたくはない。
だから彼女は笑顔で迎えようと思っていた。
コツ…コツ…コツ…
だんだん近付いてくる足音。
コツ…コツ………
なぜか途中で止まってしまう。
少し心配になりシフィグは名前を呼んでみる。
「ガイアス…?」
すると足音は再び動き出した。
また何か嫌なことでもあったのだろうか。
そんな思いを胸に秘め、シフィグはカーテンを抜けて現れるだろう息子を待ちわびた。
しかし、現れたのは愛しい息子ではなかった。

「…!!何しに…来たのですか…」
「………」
思わぬ訪問者にシフィグの声は震える。
自分のもとへやって来たのは魔王エルガナスだったからだ。
彼の姿をまともに見るのは久しぶりだった。
相変わらずの無表情。
悲しみを帯びた真紅の瞳。
思い出したくない過去の記憶が一気に蘇ってくる。
無言で佇む彼の様子に再び掛ける言葉も無く、シフィグはただここから逃げ出してしまいたかった。
しばらく沈黙の空気が流れる。
そしてエルガナスはようやく口を開いた。
「…体調はどうだ?」
「そんなこと言わずとも…見ての通りです。今更…心配しに来たのですか」
「お前に話があってきた」
「…話?」
「今日さきほど、ガイアスに王権を遷した」
「ガイアスに王権を?なぜ突然そのようなことを…」
「ガイアスにすべてを話した。だから私はもうここを…魔界を出ることにする」
「何ですって…?あの子にすべてを…?」
エルガナスの言葉を聞いてシフィグは顔色を悪くした。
自分が一番望んでいなかったこと。
それはガイアスに過去の真実を知られてしまうことだった。
壮絶な道を歩んできた自分だから息子には何も知らず幸せになってほしい。
その思いは悉く消えてしまったのだ。
落胆するシフィグを見てエルガナスは場が悪そうな表情になる。
なぜ、ここに来てしまったのか。
エルガナスは今も尚その理由がわからないままだった。
本来なら一目散に魔界を抜け出し、愛しき者がいる場所へと行きたい。
けれど胸の奥からざわめく何かが彼をここまで導いた。
改めて病に伏せるシフィグを眺める。
黒く長い髪。
頭に携えるのは二本の角。
驚くほど白い肌。
彼女を最後に見たのは何年前だっただろうか。
その頃は息子のガイアスはまだ赤子で、彼女はよく幼いガイアスを見せに来ていた。
自分は彼女を冷たくあしらい追い返す日々だったことを思い出す。
今になっても彼女はとても美しい、だから余計に目に見えてしまうものがあった。
エルガナスはベッドの傍にある椅子に腰掛けながら言う。
「だいぶ…痩せたようだな」
「………」
シフィグは何も応えずエルガナスからの視線を逸らした。
どうして今頃になって自分の前に姿を現したのか。
眠っていたはずの感情が込み騰がり、シフィグは必死に逆らおうとしていた。
「…震えている。私が…怖いのか」
「!」
その言葉にハッとしてシフィグはエルガナスを見た。
無表情、けれどどこか哀愁を垣間見せる顔。
思わず投げやりのように言葉を返してしまう。
「なぜ…ここへ来たのですか。魔界を去るなら、何も言わず行ってしまえば良かったのに…」
彼には他に愛する者がいる。
そのため王権を遷したというのなら、ここに来る意味はない。
疑問と不安がシフィグの脳裏をぐるぐると駆け回り、気分が悪くなる。
シフィグは胸元を抑え、姿勢を低くし蹲った。
「大丈夫か?」
彼女の容態を心配したエルガナスにシフィグは静かに応える。
「…心配なさらずとも、これくらい…いつものことです」
何度か咳き込んでから落ち着きを取り戻し、シフィグは息を整えた。
そして少々躊躇いながら再び口を開く。
「すみませんが…テーブルの上にある薬をとってもらえますか」
「………これか?」
「はい…あと、傍にあるもう一つの瓶も」
「………」
エルガナスはシフィグに薬を手渡した。
受け取った彼女はいそいそとそれらをすべて服用する。
その薬の量を見て、エルガナスはただ口を噤むしかなかった。

彼女の人生を狂わせてしまったのは全部自分のせいなのだろう。
だから愛しの天使を想いつつ、心のどこかで罪悪感を感じていた。
もし、自分の后にならなければ彼女は明るい道を歩んでいたかもしれない。
今はもう、何一つ変えられない現実。

エルガナスは静かに立ち上がり、シフィグに背を向けた。
「おそらく…私は二度と魔界には戻っては来ないだろう」
「…彼女のもとへ行くのですね」
「シフィグ、お前には本当に申し訳ないことをしてしまった。私を赦せとは言わない…今まですまなかったな」
「やめてください…最後に私を気遣うなど無意味なことです。でも…」
シフィグは口を噤み、背を向けるエルガナスをじっと見つめる。
言葉の続かない彼女にエルガナスは振り返った。
「シフィグ…?」
「もし…貴方が本当に、私に対して罪悪感を感じているならば…」
エルガナスは目を見開く。
自分の目の前でシフィグが静かに泣いていたからだ。
涙を拭いながら、それでも瞳は真っ直ぐなまま彼女は言葉を続けた。
「最後に…一つだけ、私の我が儘を聞いてください」
「………」
「お願いします…エルガナス様」
シフィグの懇願の眼差しに胸が痛む。
だがそれは全て自分の愚かさから生み出してしまったもの。
エルガナスはシフィグを拒むようなことはしなかった。
黙認するように、本当に小さく頷いた。



后は望む。
――私は貴方に愛されたかったのです。
でも承知しています。
貴方には愛すべき天使がいることを。
私がいくら努力してもその天使には適わないことも。
それでも私は愛されたかったのです。
寂しさで心は空っぽ…毎日通り過ぎる風を感じていました。
この虚空を埋めてしまいたかった。
――私のただ一つの望み。
互いに辛くなることは知っています。
けれど、どうしても貴方に満たしてほしかった。
今日だけは、愛する天使を忘れてください。
今日だけは、私を見てください。
――どうか今宵は、私だけを愛してください。

魔王は思う。
――私は幾度過ちを繰り返すのだろう?
己の望みのためにすべてを捨てようとした。
しかし、すべてを捨てきれず、割り切れず、貫くことも出来ず。
そうして招いてしまった結果。
私は自分勝手だ。
今も尚、同じ事をただひたすら繰り返し続けている。
愛する彼女はこんな自分を理解してくれるだろうか。
今でも信じてくれるのだろうか。
――…すまないクライン…今日だけは……私は自分の誠意を果たしたい。



闇が今宵を支配する。
閑散とした薄暗い部屋。
言葉を交わすことなく、エルガナスはシフィグを抱き締めた。
彼女はずっと泣いたままだった。
それは初めて温もりを感じた嬉しさからなのか。
それは偽りの表現だと知っている寂しさからなのか。
ただ強く身を寄せることしか出来ない自分にはわからない。
けれど、それで彼女の望みが叶うなら。
失ったものを少しでも満たされるなら。
時が変わるまでは、ずっとこのままで…。



最初で最後の日は静寂な余韻を残したまま終わりを告げた。



END